逮捕の理由

輒依鄧禹故事、承制拜禪行驃騎將軍、太子奉車・諸王駙馬都尉。蜀羣司各隨高下拜為王官、或領(鄧)艾官屬。以師纂領益州刺史、隴西太守牽弘等領蜀中諸郡。
・・・(中略)・・・
十二月、詔曰「艾曜威奮武、深入虜庭、斬將搴旗、梟其鯨鯢、使僭號之主稽首係頸、歴世逋誅、一朝而平。兵不踰時、戰不終日、雲徹席卷、蕩定巴蜀。雖白起破彊楚、韓信克勁趙、呉漢禽子陽、亞夫滅七國、計功論美、不足比勳也。其以艾為太尉、增邑二萬戸、封子二人亭侯、各食邑千戸。」
艾言司馬文王曰「兵有先聲而後實者、今因平蜀之勢以乗呉、呉人震恐、席卷之時也。然大舉之後、將士疲勞、不可便用、且徐緩之。留隴右兵二萬人・蜀兵二萬人、煮鹽興冶、為軍農要用、並作舟船、豫順流之事、然後發使告以利害、呉必歸化、可不征而定也。今宜厚劉禪以致孫休、安士民以來遠人、若便送禪於京都、呉以為流徙、則於向化之心不勸。宜權停留、須來年秋冬、比爾呉亦足平。以為可封禪為扶風王、錫其資財、供其左右。郡有董卓塢、為之宮舍。爵其子為公侯、食郡内縣以顯歸命之寵。開廣陵・城陽以待呉人、則畏威懷徳、望風而從矣。」
文王使監軍衛瓘喻艾「事當須報、不宜輒行。」
艾重言曰「銜命征行、奉指授之策、元惡既服。至于承制拜假、以安初附、謂合權宜。今蜀舉衆歸命、地盡南海、東接呉會、宜早鎮定。若待國命、往復道途、延引日月。春秋之義、大夫出疆、有可以安社稷、利國家、專之可也。今呉未賓、勢與蜀連、不可拘常以失事機。兵法、進不求名、退不避罪、艾雖無古人之節、終不自嫌以損于國也。」
鍾會・胡烈・師纂等皆白艾所作悖逆、變釁以結。詔書檻車徴艾。
(『三国志』巻二十八、鄧艾伝)

鄧艾は蜀漢を降伏させると降伏した劉禅らに官を(仮に)与える等の独断専行を行った。


それから司馬昭は鄧艾に領土の加増と太尉への昇進の命令を下し、同時に監軍である衛瓘に鄧艾の独断を諫めさせた。



しかし鄧艾は司馬昭に対して対呉のためにこのまま軍を残して呉を睨み、劉禅を厚遇する事で硬軟両方で呉に圧力をかけて降伏させるのだ、という策を示し、更には戦地に出たなら社稷のためであれば独断も許されると言い放った。




この流れからすると、鄧艾が言い出した策は独断で続行しなければ成立しないものだったのだろう。



何故かと言うと、彼は太尉に任命されたので、基本的には都に行くべきという事になるからである。



つまり、鄧艾は対呉戦に着手してしまう事で、「都へは行かずに呉を標的に変えて戦争を続行する」と言う独断専行を行おうとしている事になるのではないだろうか?




鄧艾にしてみれば反意などは一切なく、「蜀を討ったという名声のある自分が呉に睨みを利かせるのが一番効果的で、上手くいけばすぐに天下を平定できる」といった合理的思考だったのかもしれない。


二年五月、徴為司空。(諸葛)誕被詔書、愈恐、遂反。
(『三国志』巻二十八、諸葛誕伝)

だが、司馬昭の側からすれば、「理由を付けて三公就任による都行き(軍権の返上)を拒む」という、諸葛誕と同じような事を現在進行形で行っているように見えるのではないだろうか?



捕縛で済んでいるのはむしろ優しいまであるのかもしれない。