反乱者の娘

毋丘儉誅、子甸・妻荀應坐死。其族兄邈・族父虞並景帝姻通、共表魏帝以匄其命。詔聽離婚。荀所生女芝為潁川太守劉子元妻、亦坐死、以懐妊繫獄。荀辭詣(何)曾乞恩曰「芝繫在廷尉、顧影知命、計日備法。乞沒為官婢、以贖芝命。」曾哀之、騰辭上議。朝廷僉以為當、遂改法。
(『晋書』巻三十三、何曾伝)

魏の司馬師時代にあった毋丘倹の乱。




この時に毋丘倹の子の孫に当たる毋丘芝は潁川太守劉子元の妻であったが、連座して懐妊中であったが獄に繋がれ、死を待つ身となっていた。



荀邈らと同族であった毋丘芝の母荀氏は、司馬師と姻族である荀邈らの力で離縁したという形で助命されていたが、今度は娘毋丘芝のため、自分が奴婢となることで娘の命を贖いたい、と当時の司隷校尉何曾へ申し出たという。




当時は大逆罪は嫁いで家を出た女性も連座する規定だったため、同じ毋丘氏である娘は離縁によっても救いようがないのである。





このことを憐れんだ何曾らによって規定は改められたのであるが、この件はなかなか面白い事実を示しているように思う。




一つは、毋丘倹の乱は当時の潁川太守へも影響を及ぼしていたということ。


乱が拡大していたら姻族である潁川太守は完全に毋丘倹側になっていたのだろう。



これって割とマズイ事態になりえたんじゃなかろうか。





もう一つは、この乱を起こした側である毋丘倹と、鎮圧した側である司馬師やその側近たちの間には、いくつもの婚姻関係が結ばれていたということである。



司馬師が隙を見せれば、反乱者とも繋がりのある鎮圧側から離反が続発し瓦解する危険性を孕んでいたのかもしれない。






あと、次の諸葛誕の乱の時には司馬氏一族の妻として諸葛誕の娘が入っていたわけだが、その諸葛氏が連座せずに済んでいるのは司馬氏の嫁だからではなくてこの時に改められた律令の規定のお蔭なんだな・・・。