『三国志』武帝紀を読んでみよう:その4

その3(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/12/01/000100)の続き。





初平元年春正月、後將軍袁術冀州牧韓馥・豫州刺史孔伷・兗州刺史劉岱・河内太守王匡・勃海太守袁紹・陳留太守張邈・東郡太守橋瑁・山陽太守袁遺・濟北相鮑信同時倶起兵、衆各數萬、推紹為盟主。太祖行奮武將軍。
二月、(董)卓聞兵起、乃徙天子都長安。卓留屯洛陽、遂焚宮室。
是時紹屯河内、邈・岱・瑁・遺屯酸棗、術屯南陽、伷屯潁川、馥在鄴。
卓兵彊、紹等莫敢先進。太祖曰「舉義兵以誅暴亂、大衆已合、諸君何疑?向使董卓山東兵起、倚王室之重、據二周之險、東向以臨天下。雖以無道行之、猶足為患。今焚燒宮室、劫遷天子、海内震動、不知所歸、此天亡之時也。一戰而天下定矣、不可失也。」遂引兵西、將據成皋。邈遣將衛茲分兵隨太祖。到滎陽汴水、遇卓將徐榮、與戰不利、士卒死傷甚多。太祖為流矢所中、所乗馬被創、從弟洪以馬與太祖、得夜遁去。榮見太祖所將兵少、力戰盡日、謂酸棗未易攻也、亦引兵還。
(『三国志』巻一、武帝紀)

袁紹袁術らも挙兵。


彼らは基本的には太守・刺史や正式な将軍であるためそれなりの軍を擁している。それに対して魏武はそういった地位に就いてなかったので、かき集めたか恵んでもらった兵力で戦う事になる。



ここでは唯一勇ましい事を言っているし、そういった場面が実際にあったのかもしれないが、こういった事情を考えると、袁紹・張邈らの指揮下にあって董卓攻めの先兵として送り込まれたというあたりが実態だったのではなかろうか。



董卓の将徐栄に負けたものの奮戦した事で徐栄が進撃を止めたというのは、負けた魏武のよかった捜しのようにも見える。とはいえ徐栄がこの同盟軍が案外手ごわいと実際に思ったとしても不思議ではない。


同郡徐榮為董卓中郎將、薦(公孫)度為遼東太守。
(『三国志』巻八、公孫度伝)

なお『三国志公孫度伝によると徐栄公孫度と同郡だそうだ。そうなると徐栄玄菟郡の人という事か?




まあ何にせよ、せっかく魏武とそのスポンサーが集めた兵は討たれるか離散したかで台無しになった。