漢の漢たちを語る18「運命を仕組まれた女性」:元后

前漢を滅ぼしたのは言わずと知れた王莽だが、滅亡においやることになったのは元后であった。

漢書』でも「元后伝」と敢えて略称で呼ばれているのは、もしかしたら彼女が前漢にとって特別な存在であったという意味が込められているからかもしれない。



元城建公曰「昔春秋沙麓崩、晉史卜之曰『陰為陽雄、土火相乗、故有沙麓崩。後六百四十五年、宜有聖女興。』其齊田乎!今王翁孺徙、正直其地、日月當之。元城郭東有五鹿之虚、即沙鹿地也。後八十年、當有貴女興天下」云。
(『漢書』巻九十七、元后伝)

元后こと王政君が生まれるより前、こんな予言があったのだそうだ。


「王翁孺が引っ越してきた場所こそ約束の地である。八十年後、高貴な女性が天下を興すであろう」



とはいえ、おそらく王翁孺やその子孫たちもそれをあまり気にすることなく日々を過ごしていたのだろう。

だが、王翁孺の次の代の王禁の娘、王政君が生まれると状況が変わってくる。


初、李親任政君在身、夢月入其懐。及壮大、婉順得婦人道。嘗許嫁未行、所許者死。後東平王聘政君為姫、未入、王薨。禁獨怪之、使卜數者相政君「當大貴、不可言。」禁心以為然、乃教書、學鼓琴。五鳳中、獻政君、年十八矣、入掖庭為家人子。
(『漢書』巻九十七、元后伝)


政君妊娠中に母が懐に月が入ってくる夢を見たり、嫁にやろうとしたら婚約者が死に、東平王の後宮に入れてやろうとしたら東平王が死ぬ*1


なんだか呪われてる気もするが、娘について占ってもらったら「言葉に出来ないくらい高貴になります」と言うものだから、父王禁はついにその気になってふさわしい学問教養を身に付けさせてから皇帝の後宮に入れたのだった。


久之、宣帝聞太子恨過諸娣妾、欲順適其意、乃令皇后擇後宮家人子可以虞侍太子者、政君與在其中。及太子朝、皇后乃見政君等五人、微令旁長御問知太子所欲。太子殊無意於五人者、不得已於皇后、彊應曰「此中一人可。」是時政君坐近太子、又獨衣絳縁諸于、長御即以為是。
(『漢書』巻九十七、元后伝)


そして運命の時が来た。


宣帝の太子(すなわち元帝)は寵愛する女性司馬氏を失うと生きる気力すら無くしたかのように落ち込んでいた。
孫の顔が見たい宣帝は性的な意味で元気になってほしいと思い、皇后王氏に後宮の女性を見繕って太子にリラックスさせるようにと命じた。

皇后が選んだ五人の中には政君も入っていた。


太子は彼女たちを見ても興味があまり湧かなかったらしいが、義理とはいえ母じきじきの指名とあってはチェンジも出来ず、「じゃあ一人だけなら」とたまたま近くにいた政君を選んだのだ。



このほとんど気まぐれな御指名で文字通り一発着床した政君は男子を生んだ。


太子の長男、宣帝の初孫である。




その子こそ後の成帝である。



その後元帝が皇帝となるとその子は太子、政君は皇后となった。


そして元帝が死ぬと、太子は皇帝となり、政君は皇太后になった。

皇帝の母という、ある意味この世で最も尊い地位である。




彼女が幸運だったのは、彼女には多数の兄弟がおり、主に人格的に問題はあったがいずれもそれなりの人物であったことだろう。


特に長兄の王鳳は成帝を補佐というよりは事実上朝廷を支配した大物であった。

彼によって政君の一族はちょっとやそっとでは失脚しないくらい繁栄したのである。




だが、最初の予言はまだ成就していない。


それが成就するきっかけは、もっとずっと後のことだった。


(王)莽還京師歳餘、哀帝崩、無子、而傅太后・丁太后皆先薨、太皇太后即日駕之未央宮收取璽綬、遣使者馳召莽。詔尚書、諸發兵符節、百官奏事、中黄門、期門兵皆屬莽。莽白「大司馬高安侯董賢年少、不合衆心、收印綬。」賢即日自殺。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

哀帝臨崩、以璽綬付(董)賢曰「無妄以與人。」時國無嗣主、内外恇懼、(王)閎白元后、請奪之。即帯劒至宣徳後闥、舉手叱賢曰「宮車晏駕、國嗣未立、公受恩深重、當俯伏號泣、何事久持璽綬以待禍至邪!」賢知閎必死、不敢拒之、乃跪授璽綬。閎持上太后、閎持上太后、朝廷壯之。
(『後漢書』列伝第二、王閎伝)


自分の実子成帝に先立たれ、その養子哀帝は実の母と祖母を重んじて本来太皇太后として尊ぶべき政君を軽んじていた。


だが、哀帝の実母と実の祖母は先に死に、そして哀帝もまた若くして死んだ。


その報に接するや、太皇太后の政君は親族の王閎の進言に従って皇帝の印綬を保管していた大司馬董賢から皇帝の印綬を力づくで奪い取り、同時に当時三公経験者で世間の評判の良かった甥の王莽に政治を任せることにしたのである。


完全に失脚こそしなかったが哀帝に実権を奪われていた王氏は、この政君の果断な行動によって息を吹き返した。




そして、これが漢王朝の息の根を止めたことは知ってのとおりである。


平帝崩、無子、莽徴宣帝玄孫選最少者廣戚侯子劉嬰年二歳、託以卜相為最吉。乃風公卿奏請立嬰為孺子、令宰衡安漢公莽踐祚居攝、如周公傅成王故事。太后不以為可、力不能禁、於是莽遂為攝皇帝、改元稱制焉。俄而宗室安衆侯劉崇及東郡太守翟義等惡之、更舉兵欲誅莽。太后聞之、曰「人心不相遠也。我雖婦人、亦知莽必以是自危、不可。」其後、莽遂以符命自立為真皇帝、先奉諸符瑞以白太后太后大驚。
(『漢書』巻九十七、元后伝)


政君には、王莽とその同調者が急激に進めていた権力の集中と禅譲への道筋を良しとしていなかったという。
漢王朝を滅ぼすとかいった気持ちはなかったのだ。
彼女にとってみれば劉氏は婚家であり息子の家なのだから、ある意味当然である。


だが、もう既に手遅れだった。

リゾットの攻撃のように、気づいた時にはもう出来上がっていたのである。


いや、遥か昔に予言されていたことが成就したのだから、彼女が生まれた時点で手遅れだったのかもしれない。


(王)舜既見、太后知其為莽求璽、怒罵之曰「而屬父子宗族蒙漢家力、富貴累世、既無以報、受人孤寄、乘便利時、奪取其國、不復顧恩義。人如此者、狗豬不食其餘、天子豈有而兄弟邪!且若自以金匱符命為新皇帝、變更正朔服制、亦當自更作璽、傳之萬世、何用此亡國不祥璽為、而欲求之?我漢家老寡婦、旦暮且死、欲與此璽倶葬、終不可得!」太后因涕泣而言、旁側長御以下皆垂涕。舜亦悲不能自止、良久乃仰謂太后「臣等已無可言者。莽必欲得傳國璽、太后寧能終不與邪!」太后聞舜語切、恐莽欲脅之、乃出漢傳國璽、投之地以授舜、曰「我老已死、如而兄弟、今族滅也!」
(『漢書』巻九十七、元后伝)


いよいよ王莽が皇帝に即位する際、王莽は従兄弟の王舜に命じて政君が保管していた「伝国璽」を接収させようとした。


政君は拒否し、漢の恩を忘れた王莽らの食べ残しは犬も食わないほど穢れているとまで罵倒した。

しかし、王舜は「王莽は何としてでも伝国璽を得ようとしておりますから、与えないでいることはできませんぞ」と恐ろしい言葉を返す。


観念した政君は伝国璽を地面に投げつけ、「お前らは今に一族皆殺しになるぞ!」と呪いの言葉を吐くのだった。



皇帝の璽を董賢から奪うことで権力を握った政君が、権力を渡された王莽から皇帝の璽を要求される。

皮肉な話である。


莽更漢家鄢貂、著黄貂、又改漢正朔伏臘日。太后令其官屬鄢貂、至漢家正臘日、獨與其左右相對飲酒食。
(『漢書』巻九十七、元后伝)


王莽は皇帝になると暦を改め、官僚の衣服の色も黒から黄に変えた。

だが、政君は自分の近侍には漢の時代と同じ服を着させ、漢の時代のカレンダーを使い続けたという。


彼女にできる精一杯の抵抗だったのである。




結局、彼女は新王朝の滅亡と漢の復活を見る前に死んだ。

それは幸せだったのかどうか。



天に仕組まれた運命によって上り詰め、たった一度だけ自分の判断で行った重大な政治的判断が漢王朝を滅亡においやった。

まさに数奇な運命の女性であった。

*1:ちなみに、「婚約者や結婚相手が死ぬ」は前漢の皇后ではよく起こることである。