王鳳と王譚

唯(王)鳳・崇與元后政君同母。母、適妻、魏郡李氏女也。後以妒去、更嫁為河内苟賓妻。
(『漢書』巻九十八、元后伝)

王莽の伯母である元帝の皇后王氏、いわゆる「元后」と父母ともに同じ兄弟は、王鳳と王崇のみであったそうだ。



王譚・王立ら「五侯」や王莽の父の王曼は元后と母が違うのである。




元后の実母李氏は元后の父王禁と離縁し、苟賓という者と再婚したのだそうだ。






(王)鳳頓首泣曰「(王)譚等雖與臣至親、行皆奢僭、無以率導百姓、不如御史大夫(王)音謹敕、臣敢以死保之。」及鳳且死、上疏謝上、復固薦音自代、言譚等五人必不可用。天子然之。
初、譚倨、不肯事鳳、而音敬鳳、卑恭如子、故薦之。
(『漢書』巻九十八、元后伝)



王鳳は甥にあたる成帝が皇帝になると大司馬大将軍となり事実上摂政のような地位に就くわけだが、その後継について成帝より尋ねられると、弟の王譚よりも従兄弟の王音を強く推薦したそうだ。



王譚は王鳳を侮って言うことを聞かなかったからなのだそうだが、これについて理由がなんとなくわかった気がする。




王鳳・元后らの家において、王鳳・元后の実母は途中で離縁されていて、王譚らの実母が新たに正妻になっていたのだろう。



王譚からすると、王鳳は「庶長子」であって、自分こそが王禁の後継ぎである、という意識が強かったのではなかろうか。




もし王鳳の妹が皇帝の母になるという幸運がなければ、王鳳は王譚らの風下に立ち続ける人生だったのかもしれない。



王鳳としては、そういった若き日の異母弟たちによる自分への理不尽な扱いが頭にあって、「嫡子」王譚への継承を拒絶した、というのが真相だった・・・のかも。





無論、これはそれこそ週刊大衆紙のゴシップレベルの下世話な話ではあるけれど。