『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その45

その44の続き。


九月、莽母功顯君死、意不在哀、令太后詔議其服。
少阿・羲和劉歆與博士諸儒七十八人皆曰「居攝之義、所以統立天功、興崇帝道、成就法度、安輯海内也。昔殷成湯既沒、而太子蚤夭、其子太甲幼少不明、伊尹放諸桐宮而居攝、以興殷道。周武王既沒、周道未成、成王幼少、周公屏成王而居攝、以成周道。是以殷有翼翼之化、周有刑錯之功。今太皇太后比遭家之不造、委任安漢公宰尹羣僚、衡平天下。遭孺子幼少、未能共上下、皇天降瑞、出丹石之符、是以太皇太后天明命、詔安漢公居攝踐祚、將以成聖漢之業、與唐虞三代比隆也。攝皇帝遂開祕府、會羣儒、制禮作樂、卒定庶官、茂成天功。聖心周悉、卓爾獨見、發得周禮、以明因監、則天稽古、而損益焉、猶仲尼之聞韶、日月之不可階、非聖哲之至、孰能若茲!綱紀咸張、成在一匱、此其所以保佑聖漢、安靖元元之效也。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)


九月、王莽の母の功顕君が死去したが、王莽の気持ちは服喪には無く、元后にその服喪について議論させるよう詔を出させた。



少阿・羲和劉歆と博士、儒者七十八人がみな言った。



「居摂の意味は、天の精妙な働きを統べ、帝王の道を興し、法令を成し、全土を安んじるためです。
昔、殷の湯王が没し、太子も早死にし、その子である太甲が幼少にして聡明でなかったため、伊尹は彼を桐宮へ放逐して自ら国政を代行して殷の王道を興しました。周の武王が没し、周の王道がまだ完成せず、成王も幼少であったため、周公旦は成王を擁して国政を代行して周の王道を完成させました。
こうして殷は広く教化され、周は刑罰が行われないという功績がありました。
今、太皇太后は何度も皇室の危機に遭遇し、安漢公に皇帝を代行させるよう命じて、聖なる漢王朝の功業を完成して堯・舜や夏・殷・周三代のごとき隆盛を達成しようとしています。摂皇帝はついに秘宝の蔵を開き、多くの儒者と一堂に会し、礼楽を制定し、多くの官を定め、天の働きを成さんとしております。聖なる心は周到にしてただ独り周の礼を参考にするべきことを理解しており、天に則って古きを知って増減しました。それは孔子が韶を聞いてから三か月間は肉の味も分からないほどになり、孔子は太陽や月に届かないようなものだというのと同じであり、聖賢でなければ、誰がここまでのことを成し遂げられるでしょうか。小さな一歩から綱紀は粛正されております。これは聖なる漢王朝を助け、人々を安んじたおかげなのです。



王莽の母、死す。



こうなると、王莽は最低でも漢における「三十六日の喪」には服することになるし、真面目な儒者ということになっている王莽としてはいわゆる「三年の喪」に服することが暗黙の了解となっていたことだろう。



だが、それは政治的空白を生むと言う意味でも、王莽の権力が他人に奪われる余地を作ってしまうという意味でも、望ましいものではなかったのだろう。




というわけで、儒者たちは「王莽さんがいないと漢王朝は回りまへんで」と後半に向けた前振りをするのだった。