武帝末、珠崖太守會稽孫幸調廣幅布獻之、蠻不堪役、遂攻郡殺幸。幸子豹合率善人還復破之、自領郡事、討撃餘黨、連年乃平。豹遣使封還印綬、上書言状、制詔即以豹為珠崖太守。
(『後漢書』南蛮伝)
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20101227/1293378037で引用した文の一部。
これによると、漢の武帝の末期、珠崖太守の孫幸*1という人間が中央に献上するための布を集めるために現地人が苦しみ、怒った現地人が反抗して孫幸は殺害された。
孫幸の子の孫豹は従順な人間を糾合し、郡太守の仕事を預かって反乱軍を制圧した。
孫豹は反乱を平定すると太守の印綬を朝廷に返上したが、皇帝は孫豹を改めて正式な珠崖太守に任命したという。
これは、有事の際に太守が死亡するという緊急事態にどういった対応をしたのかという点に関してのサンプルではないかと思う。
太守が司令官であったから、反乱軍がいるのに太守が不在のままになることは大変にマズイのだ。
この時、誰か(太守の側近に居た者か次官)が代わりに太守の役割を果たさなければいけない。
後漢末には各地で似たような事態が起こっている*2が、これらもこの事例と同じような手続きを踏んだ、あるいは踏むことを想定したものなのだろう*3。