『三国志』武帝紀を読んでみよう:その45

その44(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/20/000100)の続き。





二十三年春正月、漢太醫令吉本與少府耿紀・司直韋晃等反、攻許、燒丞相長史王必營、必與潁川典農中郎將嚴匡討斬之。
曹洪呉蘭、斬其將任夔等。
三月、張飛馬超走漢中、陰平氐強端斬呉蘭、傳其首。
夏四月、代郡・上谷烏丸無臣氐等叛、遣鄢陵侯(曹)彰討破之。
六月、令曰「古之葬者、必居瘠薄之地。其規西門豹祠西原上為壽陵、因高為基、不封不樹。周禮冢人掌公墓之地、凡諸侯居左右以前、卿大夫居後、漢制亦謂之陪陵。其公卿大臣列將有功者、宜陪壽陵、其廣為兆域、使足相容。」
秋七月、治兵、遂西征劉備
九月、至長安
冬十月、宛守將侯音等反、執南陽太守、劫略吏民、保宛。
初、曹仁討關羽、屯樊城、是月使仁圍宛。
(『三国志』巻一、武帝紀)

吉本の乱。


太医令吉本・少府耿紀・丞相司直韋晃といった面々は、その立場からすれば、それまでは魏武に従順だったんじゃないかと思う*1んだが、実は反魏武への闇営業を行っていたわけだ。



これによって丞相長史王必が襲撃されたが何とか撃退。何とかなったからいいものの、皇帝お膝元で魏武が大丈夫だと思っていた者たちが反乱を起こしたわけだから、これは案外深刻な問題であろう。




そして、まるでそんな内部の問題を見透かしていたかのように劉備、動きます。


(甘露三年)六月丙子、詔曰「昔南陽郡山賊擾攘、欲劫質故太守東里袞、功曹應余獨身捍袞、遂免於難。余顛沛殞斃、殺身濟君。其下司徒、署余孫倫吏、使蒙伏節之報。」
(『三国志』巻四、高貴郷公紀、甘露三年)

南陽郡宛県で起こった侯音の反乱。この時の太守は東里袞という人物で、応余という者に庇われて助かったらしい。


ちなみにこの東里袞、その後関羽に捕まり、孫権の元へ行き、また魏に戻るという流転の人生を歩む。



侯音は「守将」となっているので、侯音もそれまでは宮仕えの身だった事になる。



本来は関羽を討つために出てきていた曹仁は、まずそちらへの対応を余儀なくされる。




そして、漢中の方は劉備本隊が迫るのであった。

*1:皇帝に比較的近い立場の少府、丞相直属の監察官と言うべき丞相司直など、反抗的な者には就かせたくない職であろう。