『晋書』武帝紀を読んでみよう:その8

その7(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/09/21/000100)の続き。





二年春正月丙戌、遣兼侍中侯史光等持節四方、循省風俗、除禳祝之不在祀典者。
丁亥、有司請建七廟、帝重其役、不許。
庚寅、罷雞鳴歌。
辛丑、尊景皇帝夫人羊氏曰景皇后、宮曰弘訓。
丙午、立皇后楊氏。
二月、除漢宗室禁錮
己未、常山王衡薨。詔曰「五等之封、皆録舊勳。本為縣侯者傳封次子為亭侯、郷侯為關內侯、亭侯為關中侯、皆食本戸十分之一。」
丁丑、郊祀宣皇帝以配天、宗祀文皇帝於明堂以配上帝。
庚午、詔曰「古者百官、官箴王闕。然保氏特以諫諍為職、今之侍中・常侍實處此位。擇其能正色弼違匡救不逮者、以兼此選。」
三月戊戌、呉人來弔祭、有司奏為答詔。帝曰「昔漢文・光武懷撫尉他・公孫述、皆未正君臣之儀、所以羈縻未賓也。(孫)晧遣使之始、未知國慶、但以書答之。」
(『晋書』巻三、武帝紀)

泰始2年。



魏に続いて漢の宗室(劉氏)の公職追放も解除。


魏一代はずっと続いていたのだろう。




呉の弔問の使者が来た。


晋王司馬昭の弔問という事だ。「未だ国慶を知らず」というのは、「司馬昭死去は知っていても司馬炎即位という慶事は知らなかった」という事か。



皇帝を名乗る呉をどう扱うかというのが司馬炎の言葉。


漢の文帝が南越を、光武が公孫述を慰撫しただけにとどめたようにするぞ、という事らしい。


寶鼎元年正月、遣大鴻臚張儼・五官中郎將丁忠弔祭晉文帝。及還、儼道病死。
忠説(孫)晧曰「北方守戰之具不設、弋陽可襲而取。」晧訪羣臣、鎮西大將軍陸凱曰「夫兵不得已而用之耳、且三國鼎立已來、更相侵伐、無歲寧居。今彊敵新并巴蜀、有兼土之實、而遣使求親、欲息兵役、不可謂其求援於我。今敵形勢方彊、而欲徼幸求勝、未見其利也。」車騎將軍劉纂曰「天生五才、誰能去兵?譎詐相雄、有自來矣。若其有闕、庸可棄乎?宜遣閒諜、以觀其勢。」晧陰納纂言、且以蜀新平、故不行、然遂自絶。
(『三国志』巻四十八、孫晧伝)


なお呉の方ではこの時に「見ていて守りが万全ではなかったので晋を攻めましょう」という論があり、実際に攻める事はなかったが、これを機に晋との国交は断絶するようになった、との事。