『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その46

その45(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/01/02/000200)の続き。





春正月、徙齊王韓信為楚王、都下邳。信乃賜所從食漂母千金。召下郷亭長曰、公小人也、為惠不終。賜錢百萬。召辱己少年曰、壯士哉。以為中尉。
赦天下殊死已下。
群臣上皇帝尊號。王辭讓而後受。
二月甲午、皇帝即位于汜水之陽。以十月為正、從火徳、色尚赤、以應斬白蛇神母之符。尊王后曰皇后、太子曰皇太子、迫尊先媼曰昭靈夫人。
鄱君呉芮率百越佐諸侯、立芮為長沙王。
越王無諸率閩中兵以佐滅秦、立無諸為越王。
於是皇帝西都洛陽。
夏五月、兵皆罷。令人保其山澤者、各歸其田里。自賣為人奴婢者、免為庶人。
上置酒南宮、問群臣曰、吾所以得天下、羽所以失之者何。王陵對曰、陛下使人攻城略地、因以賞之、與天下同其利。項羽嫉賢妒能、有功者害之、賢者疑之、戰勝不蒙其功、得地不獲其利、所以失天下也。上曰、公知其一、未知其二。夫運籌帷幄之中、決勝千里之外、吾不如子房。鎮國家、撫百姓、給餉饋、吾不如蕭何。連百萬之衆、戰必勝、攻必取、吾不如韓信三者皆人傑也。吾能用之、所以取天下也。羽有一范增、賢而不能用、此所以為我擒也。上問韓信曰、公相我能將幾何。信曰、陛下不過能將十萬。又問韓信、公能將幾何。對曰、臣多多益辦耳。上曰、何為為我臣。信曰、陛下雖不能將兵、而善將將。此所謂天授、非人力也。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第三)

韓信、斉王から楚王に移される。これはおそらくは以前の約束(韓信と彭越を呼び寄せるためのもの)を守った人事であり、韓信がそちらの出身である事を考えても、栄転と言うべきだろう。


なお、彭越も同時期に梁王になっている。




そして劉邦が皇帝に即位。


於是諸侯上疏曰「楚王韓信・韓王信・淮南王英布・梁王彭越・故衡山王呉芮・趙王張敖・燕王臧荼昧死再拜言大王陛下。先時秦為亡道、天下誅之。大王先得秦王、定關中、於天下功最多。存亡定危、救敗繼絶、以安萬民、功盛徳厚。又加惠於諸侯王有功者、使得立社稷。地分已定、而位號比儗、亡上下之分、大王功徳之著、於後世不宣。昧死再拜上皇帝尊號。」
(『漢書』巻一下、高帝紀下)


この時に劉邦に皇帝の号を奉ったのは、楚王韓信、韓王韓信、淮南王英布、梁王彭越、(長沙王)呉芮、趙王張敖、燕王臧荼だという。当時生き残って劉邦に従っていた王全員となるはずである。他に項羽が立てた臨江王(共尉)がいるが、この臨江王は劉邦に降伏せず、この頃は劉賈らに攻囲されている頃である。



劉邦は前の皇帝から地位を譲られたわけではなく、かといって自ら名乗ったわけでもなく、少なくとも大義名分としては天下の諸侯たちの大多数による推戴という形で皇帝の座に就いたのである。




そして軍の解散、山賊化していた集団への帰農命令、そして戦乱の中で奴婢と為らざるを得なかった者の救済といった政策に着手し、戦時体制の店じまいを進める劉邦であった。