真定趙氏

趙雲字子龍、常山真定人也。
(『三国志』巻三十六、趙雲伝)

南越王尉佗者、真定人也、姓趙氏。
(『史記』巻一百一十三、南越列伝)

趙姬生淮南窅王長。
(『漢書』巻三十八、高五王伝)

真定、窅王母家縣也。
(『漢書』巻四十四、淮南窅王長伝)


かの有名な趙雲は秦末から前漢前半期にかけて南越の地(後世の交州)を治めた尉佗(趙佗)とは同姓で同郷(真定)というのは知られているような知られていないようなことなのだろうと思う。



更に、漢の高祖のお手付きとなって末子の淮南王劉長(淮南王劉安の父)を生んだ女性も同じ真定の趙氏だったらしい。





思うに、この真定の趙氏は秦漢の真定では結構な大族であったのだろう。



秦代に郡尉クラスになったり王の寵姫となったりというのはそもそもが趙氏が現地においては上流階級の端くれだったからじゃないかと思われるからだ。




そこから想像をたくましくすると、趙雲も現地豪族の類であったろうと考えたくなるが、流石にそこまで言い切ってしまうのはこの件だけでは難しいところだろう。



とはいえ、趙雲は単身で仕えた武人と考えるよりは、自分の家の私兵を引き連れていた土豪の類だと思った方がいいじゃないかな、とは思う。