『晋書』武帝紀を読んでみよう:その28

その27(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/10/25/000100)の続き。





二年春正月、以疾疫廢朝。
賜諸散吏至于士卒絲各有差。
二月丙戌、河間王洪薨。
甲午、赦五歳刑以下。
東夷八國歸化。
并州虜犯塞、監并州諸軍事胡奮撃破之。
初、燉煌太守尹璩卒、州以燉煌令梁澄領太守事、議郎令狐豐廢澄、自領郡事。豐死、弟宏代之。至是、涼州刺史楊欣斬宏、傳首洛陽。
先是、帝不豫。及瘳、羣臣上壽。詔曰「毎念頃遇疫氣死亡、為之愴然。豈以一身之休息、忘百姓之艱邪?諸上禮者皆絶之。」
夏五月、鎮西大將軍・汝陰王駿討北胡、斬其渠帥吐敦。
立國子學。
庚午、大雩。
六月癸丑、薦荔支于太廟。
甲戌、有星孛于氐。
自春旱、至于是月始雨。
呉京下督孫楷帥衆來降、以為車騎將軍、封丹楊侯。
龍二見于新興井中。
(『晋書』巻三、武帝紀)

死んだ河間王司馬洪は安平王司馬孚の孫で司馬望の子。



この頃、洛陽近辺で疫病が流行したそうで、皇帝司馬炎も体調が悪化したというのも同じ疫病だったのかもしれない。



敦煌では太守が不在となったが、代行者を令狐豊なる人物が廃して自分が成り代わったという。一種の謀反であったため、次の代の令狐宏の時に涼州刺史によって誅殺された。後漢末にも20年太守不在だったという曰くつきの郡だけに、太守を交代するだけでも一仕事なのだろう。



初、永安賊施但等劫(孫)晧弟謙襲建業、或白楷二端不即赴討者、晧數遣詰楷。楷常惶怖、而卒被召、遂將妻子親兵數百人歸晉、晉以為車騎將軍、封丹楊侯。
(『三国志』巻五十一、孫韶伝)

晋に降った孫楷は孫韶の子。讒言によって皇帝孫晧に疑われたために危険を感じて逃げ出したという事らしい。もう何度か出てきたパターン。