『晋書』武帝紀を読んでみよう:その25

その24(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/10/20/000100)の続き。





秋七月丙寅、皇后楊氏崩。
壬午、呉平虜將孟泰・偏將軍王嗣等帥衆降。
八月、涼州虜寇金城諸郡、鎮西將軍・汝陰王駿討之、斬其帥乞文泥等。
戊申、葬元皇后于峻陽陵。
九月癸亥、以大將軍陳騫為太尉。
攻拔呉枳里城、獲呉立信校尉莊祐。呉將孫遵・李承帥衆寇江夏、太守嵇喜撃破之。
立河橋于富平津。
冬十一月、立城東七里澗石橋。
庚午、帝臨宣武觀、大閱諸軍。
十二月、有星孛于軫。
置藉田令。
立太原王子緝為高陽王。
呉威北將軍嚴聰・揚威將軍嚴整・偏將軍朱買來降。
是歳、鑿陝南山、決河、東注洛、以通運漕。
(『晋書』巻三、武帝紀)

泰始10年後半。



呉からの降伏者続出。



また江夏を攻めてきた呉の孫遵は陸抗の時に公安督だった人物と思われる。


そしてそれを撃退した江夏太守嵇喜はあの嵇康の兄。



(杜)預又以孟津渡險、有覆沒之患、請建河橋于富平津。議者以為殷・周所都、歴聖賢而不作者、必不可立故也。預曰「『造舟為梁』、則河橋之謂也。」及橋成、帝從百僚臨會、舉觴屬預曰「非君、此橋不立也。」對曰「非陛下之明、臣亦不得施其微巧。」
(『晋書』巻三十四、杜預伝)

富平津に造った橋というのは、杜預が建言したものらしい。杜預は祖父杜畿が船の事故で失っているので、もしかすると船を橋に変える事については人一倍情熱を燃やしていたのかもしれない。



この時代、なかなかインフラ工事や大土木事業が進められたようだ。特に陸運・水運の改善が進んでいたように見える。