その28(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/10/28/000100)の続き。
秋七月、有星孛于大角。
呉臨平湖自漢末壅塞、至是自開。父老相傳云「此湖塞、天下亂。此湖開、天下平」
癸丑、安平王隆薨。
東夷十七國内附。
河南・魏郡暴水、殺百餘人、詔給棺。
鮮卑阿羅多等寇邊、西域戊己校尉馬循討之、斬首四千餘級、獲生九千餘人、於是來降。
八月庚辰、河東。平陽地震。
己亥、以太保何曾為太傅、太尉陳騫為大司馬、司空賈充為太尉、鎮軍大將軍齊王攸為司空。
有星孛于太微、九月又孛于翼。
丁未、起太倉於城東、常平倉於東西市。
閏月、荊州五郡水、流四千餘家。
冬十月、以汝陰王駿為征西大將軍、平南將軍羊祜為征南大將軍。
丁卯、立皇后楊氏、大赦、賜王公以下及于鰥寡各有差。
十一月、白龍二見于梁國。
十二月、徴處士安定皇甫謐為太子中庶子、封后父鎮軍將軍楊駿為臨晉侯。
是月、以平州刺史傅詢・前廣平太守孟桓清白有聞、詢賜帛二百匹、桓百匹。
(『晋書』巻三、武帝紀)
咸寧2年後半。
皇帝司馬炎の皇后だった楊氏(楊艷)は既に死去したが、また別の楊皇后が立てられた。
武元楊皇后諱艷、字瓊芝、弘農華陰人也。父文宗、見外戚傳。母天水趙氏、早卒。后依舅家、舅妻仁愛、親乳養后、遣他人乳其子。及長、又隨後母段氏、依其家。
后少聰慧、善書、姿質美麗、閑於女工。有善相者嘗相后、當極貴、文帝聞而為世子聘焉。甚被寵遇、生毗陵悼王軌・惠帝・秦獻王柬、平陽・新豐・陽平公主。
武帝即位、立為皇后。有司奏依漢故事、皇后・太子各食湯沐邑四十縣、而帝以非古典、不許。
后追懷舅氏之恩、顯官趙俊、納俊兄虞女粲於後宮為夫人。
(『晋書』巻三十一、武元楊皇后伝)
武悼楊皇后諱芷、字季蘭、小字男胤、元后從妹。父駿、別有傳。
以咸寧二年立為皇后。婉嫕有婦徳、美暎椒房、甚有寵。生渤海殤王、早薨、遂無子。太康九年、后率内外夫人命婦躬桑于西郊、賜帛各有差。
(『晋書』巻三十一、武悼楊皇后伝)
最初の楊皇后が武元楊皇后、二番目の楊皇后が武悼楊皇后である。
後継ぎの皇太子(恵帝)は武元楊皇后が生母。
弘農郡華陰県の楊氏というと楊震が有名で、後には楊彪・楊修もこの氏の出であるが、その割に武元楊皇后は父の実家から支援をあまり得られなかったように見える。
皇甫謐は隠遁する学者であり、この時にも司馬炎は彼を官に就けさせたが、実際に仕官する事はなく人生を終えたとされている。