『晋書』武帝紀を読んでみよう:その22

その21(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/10/16/000100)の続き。





秋七月、以車騎將軍賈充為司空。
九月、呉西陵督歩闡來降、拝衛將軍・開府儀同三司、封宜都公。呉將陸抗攻闡、遣車騎將軍羊祜帥衆出江陵、荊州刺史楊肇迎闡於西陵、巴東監軍徐胤撃建平以救闡。
冬十月辛未朔、日有蝕之。
十二月、肇攻抗、不克而還。闡城陷、為抗所禽。
(『晋書』巻三、武帝紀)

呉の西陵督歩闡、反乱。晋へ助けを求め、晋は衛将軍の地位を贈る。


十年卒、子(歩)協嗣、統騭所領、加撫軍將軍。
協卒、子璣嗣侯。
協弟闡、繼業為西陵督、加昭武將軍、封西亭侯。
鳳皇元年、召為繞帳督。闡累世在西陵、卒被徴命、自以失職、又懼有讒禍、於是據城降晉。遣璣與弟璿詣洛陽為任、晉以闡為都督西陵諸軍事・衛將軍・儀同三司、加侍中、假節領交州牧、封宜都公。璣監江陵諸軍事・左將軍、加散騎常侍、領廬陵太守、改封江陵侯。璿給事中・宣威將軍、封都郷侯。命車騎將軍羊祜・荊州刺史楊肇往赴救闡。孫晧使陸抗西行、祜等遁退。抗陷城、斬闡等、歩氏泯滅、惟璿紹祀。
(『三国志』巻五十二、歩騭伝)

歩闡は呉の丞相歩騭の子。家督は甥が継いでいたが、西陵督から中央に召還された事に危機感を覚えて反抗するという、魏末にも何度かあったヤツである。


歩闡の甥の一人歩璿は人質として洛陽へ行き、歩闡は呉の陸抗と戦った。



晋は司馬氏の腹心羊祜と荊州刺史楊肇らを派遣して救おうとする。というか、歩闡が持ちこたえれば、それだけで呉は終わるかもしれないのだから当然である。


及還鎮、呉西陵督歩闡舉城來降。呉將陸抗攻之甚急、詔(羊)祜迎闡。祜率兵五萬出江陵、遣荊州刺史楊肇攻抗、不克、闡竟為抗所擒。有司奏「祜所統八萬餘人、賊衆不過三萬。祜頓兵江陵、使賊備得設。乃遣 楊肇偏軍入險、兵少糧懸、軍人挫衄。背違詔命、無大臣節。可免官、以侯就第。」竟坐貶為平南將軍、而免楊肇為庶人。
(『晋書』巻三十四、羊祜伝)

羊祜らは陸抗に敗れて歩闡も捕らえられた。羊祜は兵8万、呉は3万なのに負けてんじゃねーよ、みたいな責任追及もやむなしといったところ。


羊祜自身の兵は5万だとされているので、残り3万は荊州刺史の兵か?



臣松之案、(楊)暨字休先、滎陽人、事見劉曄傳。暨子肇、晉荊州刺史。山濤啟事稱肇有才能。肇子潭字道元、次歆字公嗣、潭子彧字長文、次經字仲武、皆見潘岳集。
(『三国志』巻二十六、田予伝注)


この時に敗れて官爵を剥奪された荊州刺史楊肇は、魏の烈祖様の頃の中領軍楊暨の子。