『晋書』武帝紀を読んでみよう:その21

その20(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/10/15/000100)の続き。





八年春正月、監軍何楨討匈奴劉猛、累破之、左部帥李恪殺猛而降。
癸亥、帝耕于藉田。
二月乙亥、禁彫文綺組非法之物。
壬辰、太宰・安平王孚薨。
詔内外羣官舉任邊郡者各三人。
帝與右將軍皇甫陶論事、陶與帝爭言、散騎常侍鄭徽表請罪之。帝曰「讜言謇諤、所望於左右也。人主常以阿媚為患、豈以爭臣為損哉!徽越職妄奏、豈朕之意。」遂免徽官。
夏四月、置後將軍、以備四軍。
六月、益州牙門張弘誣其刺史皇甫晏反、殺之、傳首京師。弘坐伏誅、夷三族。
壬辰、大赦
丙申、詔復隴右四郡遇寇害者田租。
(『晋書』巻三、武帝紀)

泰始8年前半。



安平王司馬孚、ついに死す。90歳超えであった。




司馬炎は当時の右将軍と論争になったが、それについて散騎常侍鄭徽なる人物が、恐れ多くも皇帝と論争した右将軍を罰する事を求めた。


だが皇帝司馬炎は「阿諛追従せず論争する臣下こそ貴重、鄭徽の方こそ越権行為である」と断じて鄭徽を罷免したのだった。


ポーズであるにしても、なかなか見上げた態度と言っていいだろう。



武帝泰始八年五月、蜀地雨白毛、此白祥也。
益州刺史皇甫晏伐汶山胡、從事何旅固諫、不從。牙門張弘等因衆之怨、誣晏謀逆、害之。
(『晋書』巻二十八、五行志中)

何攀字惠興、蜀郡郫人也。仕州為主簿。
屬刺史皇甫晏為牙門張弘所害、誣以大逆。時攀適丁母喪、遂詣梁州拜表、證晏不反、故晏冤理得申。
(『晋書』巻四十五、何攀伝)


涼州方面の次は益州刺史も殺された。益州刺史皇甫晏は汶山胡討伐の際に部下に大逆罪をでっち上げられて殺されたのだそうだ。反対者が多く納得されていない討伐だったのかもしれない。

世語曰、(王)經字彦緯。初為江夏太守。大將軍曹爽附絹二十匹令交市于呉、經不發書、棄官歸。母問歸狀、經以實對。母以經典兵馬而擅去、對送吏杖經五十。爽聞、不復罪。經為司隸校尉、辟河内向雄為都官從事。王業之出、不申經意、以及難。經刑於東市、雄哭之、感動一市。刑及經母、雍州故吏皇甫晏以家財收葬焉。
(『三国志』巻九、夏侯玄伝注引『世語』)


確証は無いが、あの高貴郷公の乱の時に処刑された王経を葬った皇甫晏は、もしかして同一人物か。