『晋書』武帝紀を読んでみよう:その11

その10(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/09/24/000100)の続き。





三年春正月癸丑、白龍二見于弘農・澠池。
丁卯、立皇子衷為皇太子。詔曰「朕以不徳、託于四海之上、兢兢祗畏、懼無以康濟㝢内、思與天下式明王度、正本清源、於置胤樹嫡、非所先務。又近世毎建太子、寬宥施惠之事、間不獲已、順從王公卿士之議耳。方今世運垂平、將陳之以徳義、示之以好惡、使百姓蠲多幸之慮、篤終始之行、曲惠小仁、故無取焉。咸使知聞。」
三月戊寅、初令二千石得終三年喪。
丁未、晝昏。
罷武衛將軍官。
以李憙為太子太傅。
太山石崩。
夏四月戊午、張掖太守焦勝上言、氐池縣大柳谷口有玄石一所、白畫成文、實大晉之休祥、圖之以獻。詔以制幣告于太廟、藏之天府。
(『晋書』巻三、武帝紀)

司馬炎、皇太子を立てる。


帝之為太子也、朝廷咸知不堪政事、武帝亦疑焉。嘗悉召東宮官屬、使以尚書事令太子決之、帝不能對。賈妃遣左右代對、多引古義。給事張泓曰「太子不學、陛下所知。今宜以事斷、不可引書。」妃從之。泓乃具草、令帝書之。武帝覽而大悦、太子遂安。
(『晋書』巻四、孝恵帝紀


かの有名な晋の恵帝である。


回答のゴーストライターに「太子が勉強できない事は陛下(司馬炎)もよくわかっておいでなので、経書を引用してはいけない」と特に手加減を求める必要があったという。




その後の詔は、最近の立太子のように天下に恩典を与えないけど勘弁な、って事か?





二千石つまり太守クラスにも「三年の喪」をやり通させる事を許すようになった。


これは地味ながらなかなかの変化。太守が2年以上留守って普通はなかなか有り得ない。


だが皇帝自身がやり通そうという意思を示している以上、下の者にも認めて行かないのはおかしいという事なのだろう。