『晋書』武帝紀を読んでみよう:その10

その9(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/09/23/000100)の続き。





冬十月丙午朔、日有蝕之。
丁未、詔曰「昔舜葬蒼梧、農不易畝。禹葬成紀、市不改肆。上惟祖考清簡之旨、所徙陵十里内居人、動為煩擾、一切停之。」
十一月己卯、倭人來獻方物。
并圜丘・方丘於南・北郊、二至之祀合於二郊。
罷山陽公國督軍、除其禁制。
己丑、追尊景帝夫人夏侯氏為景懷皇后。
辛卯、遷祖禰神主于太廟。
十二月、罷農官為郡縣。
是歳、鳳皇六・青龍十・黄龍九・麒麟各一見于郡國。
(『晋書』巻三、武帝紀)

泰始2年冬。



倭人が貢ぎ物を献上に来たりした。



山陽公というのは分かる人も多いだろうが漢の献帝の子孫の国。督軍が置かれていたというのは、おそらくは山陽公の国の兵を監視するための措置だったのだろう。魏が反乱や反乱軍に利用される事を警戒したのだろうが、もう一代経た事でその監視を緩める事にしたと思われる。




農官をやめて郡県にするというのは、いわゆる屯田制度の事。



魏武に始まる魏の屯田は、屯田の集落が郡県のように機能しつつ郡県の管轄を離れた存在になっていた事が伺える。



司馬炎は、それを郡県の中に組み入れたという事である。



戦時体制を解消する、という事だ。