『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その18

その17(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/10/000100)の続き。






二年夏五月、呉將全琮寇芍陂、朱然・孫倫圍樊城、諸葛瑾・歩騭掠柤中、帝請自討之。議者咸言、賊遠來圍樊、不可卒拔。挫於堅城之下、有自破之勢、宜長策以御之。帝曰「邊城受敵而安坐廟堂、疆埸騷動、衆心疑惑、是社稷之大憂也。」
六月、乃督諸軍南征、車駕送出津陽門。帝以南方暑溼、不宜持久、使輕騎挑之、然不敢動。於是休戰士、簡精鋭、募先登、申號令、示必攻之勢。呉軍夜遁走、追至三州口、斬獲萬餘人、收其舟船軍資而還。天子遣侍中常侍勞軍于宛。
秋七月、增封食郾・臨潁、并前四縣、邑萬戸、子弟十一人皆為列侯。
帝勳徳日盛而謙恭愈甚。以太常常林郷邑舊齒、見之毎拝。
恆戒子弟曰「盛満者道家之所忌、四時猶有推移、吾何徳以堪之。損之又損之、庶可以免乎!」
(『晋書』巻一、宣帝紀

呉が攻めてくるが、司馬懿は兵を率いて救援に赴き、呉を退け追撃で大きな戦果を上げた。


夏四月、遣衛將軍全琮略淮南、決芍陂、燒安城邸閣、收其人民。威北將軍諸葛恪攻六安。琮與魏將王淩戰于芍陂、中郎將秦晃等十餘人戰死。車騎將軍朱然圍樊、大將軍諸葛瑾取柤中。
五月、太子登卒。是月、魏太傅司馬宣王救樊。
六月、軍還。
閏月、大將軍瑾卒。
(『三国志』巻四十七、呉主伝、赤烏4年)

呉は淮南方面と荊州と両方を攻めたようで、結構大規模な攻撃だったように思われる。魏の代替わりを狙ったものか。



明帝即位、進封高陽郷侯、徙光祿勳・太常。
晉宣王以林郷邑耆徳、毎為之拝。或謂林曰「司馬公貴重、君宜止之。」林曰「司馬公自欲敦長幼之敍、為後生之法。貴非吾之所畏、拝非吾之所制也。」言者踧踖而退。
時論以林節操清峻、欲致之公輔、而林遂稱疾篤。拝光祿大夫。
【注】
魏略曰、初、林少與司馬京兆善。太傅毎見林、輒欲跪。林止之曰「公尊貴矣、止也!」及司徒缺、太傅有意欲以林補之。
案魏略此語、與本傳反。臣松之以為林之為人、不畏權貴者也。論其然否、謂本傳為是。
(『三国志』巻二十三、常林伝)


常林は同郡同県の人間。司馬京兆すなわち司馬懿の父司馬防と仲が良かったという。


彼と司馬懿の関係については、司馬懿がひざまづこうとしたのを常林が止めたという話と、官爵では上の司馬懿が拝礼するのを敢えてそのままにしたという話と、方向性が真逆の二つの話が伝わる。


あるいは、拝礼は受けるが、ひざまづくのはやりすぎだと止めた、みたいな事だったのかもしれない。よくわからないけど。




司馬懿は常々「行き過ぎは良くない」と自分たちの地位や栄誉について子弟に対し戒めていた、という。


今や魏王朝の二頭政治の一方のトップになっており、今更感が無くもないが、一族を守るために少しでも周囲の印象を良くしておこう、という考えがあったのではなかろうか。