『三国志』明帝紀を読んでみよう:その5

その4(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/02/09/000100)の続き。





四年春二月壬午、詔曰「世之質文、隨教而變。兵亂以來、經學廢絶、後生進趣、不由典謨。豈訓導未洽、將進用者不以德顯乎?其郎吏學通一經、才任牧民、博士課試、擢其高第者、亟用。其浮華不務道本者、皆罷退之。」
戊子、詔太傅・三公、以文帝典論刻石、立于廟門之外。
癸巳、以大將軍曹真為大司馬、驃騎將軍司馬宣王為大將軍、遼東太守公孫淵為車騎將軍。
夏四月、太傅鍾繇薨。
六月戊子、太皇太后崩。
丙申、省上庸郡。
秋七月、武宣卞后祔葬于高陵。
詔大司馬曹真・大將軍司馬宣王伐蜀。
八月辛巳、行東巡、遣使者以特牛祠中嶽。
乙未、幸許昌宮。
九月、大雨、伊・洛・河・漢水溢、詔真等班師。
冬十月乙卯、行還洛陽宮。
庚申、令「罪非殊死聽贖各有差。」
十一月、太白犯歳星。
十二月辛未、改葬文昭甄后于朝陽陵。
丙寅、詔公卿舉賢良。
(『三国志』巻三、明帝紀

太和4年。



そういえば前年に孫権も皇帝を名乗っている。これで完全に三帝が並ぶ状態となった。



南陽何晏・鄧颺・李勝・沛國丁謐・東平畢軌咸有聲名、進趣於時、明帝以其浮華、皆抑黜之。
(『三国志』巻九、曹爽伝)


浮華の排斥が始まる。上記の何晏らの他、例えば諸葛誕などもこれに引っかかっている。



(曹)真以「蜀連出侵邊境、宜遂伐之。數道並入、可大克也」帝從其計。真當發西討、帝親臨送。真以八月發長安、從子午道南入。司馬宣王泝漢水、當會南鄭。諸軍或從斜谷道、或從武威入。會大霖雨三十餘日、或棧道斷絶、詔真還軍。
(『三国志』巻九、曹真伝)

(建興)八年秋、魏使司馬懿由西城、張郃由子午、曹真由斜谷、欲攻漢中。丞相(諸葛)亮待之於城固・赤阪、大雨道絶、真等皆還。
(『三国志』巻三十三、後主伝)


蜀漢への侵攻は曹真の発案であったという。見た感じそれなりに本腰を入れてやろうとしたのだろうが長雨によってそれどころではなくなった。偽降に引っかかるよりは数段マシな結果ではある。



諸葛亮の方も待ち受けていたというから、仮に長雨じゃなかったとしてもどこまで成果が出たのかは分からないが。




他にもこの年は太皇太后卞氏(魏武の后)や太傅畜生が死去するなど、よくよく見るとなかなかのイベント揃いの年であった。