『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その52

その51(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/01/09/000100)の続き。





春正月丙午、立劉賈為荊王、王五十三縣。
高帝兄弟四人、長曰伯、早卒、追號為武哀侯。封子信為刮羹侯。
初、上微時數將客過嫂食。嫂饜食之、陽為羹盡刮釜。上聞惡之。故號其子為刮羹侯。
次兄曰喜、字仲、立仲為代王。
弟曰交、字游、好讀書、有才藝。從上征伐有功、立交為楚王。
庶子肥為齊王、王七十縣、以曹參為齊相國。
徙韓王信于太原、都晉陽。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第三)

劉邦、親族たちを王にする。



直前に「陛下の子弟を斉王にすべし」という進言を受けた事になっているのだろう。




劉賈は従兄弟とされており、対項羽戦で別動隊として功績がある人物。



代王劉喜は劉邦の兄。淮陰侯韓信の後に楚王となった劉交は劉邦の弟である。劉交は儒学を学んだとされており、劉邦たちの家が案外上流だったのではないかと思わせる。



斉王となった劉肥は「庶長子」とあるように、正妻呂氏の子劉盈(のちの恵帝)よりも年長である。劉邦が呂氏を娶る以前にいたであろう先妻の子という事だろうか。




また、韓王であった方の韓信は北方へ国替えとなった。

明年春、上以韓信材武、所王北近鞏・洛、南迫宛・葉、東有淮陽、皆天下勁兵處、迺詔徙韓王信王太原以北、備禦胡、都晉陽。
(『史記』巻九十三、韓信盧綰列伝)

それまでの彼の領土は要地に近すぎるので遠ざけた、という事らしい。劉邦の猜疑心だと言えばそれまでだが、劉邦はそれだけ独立した君主である王たちの動向を何よりも気にしていたという事でもあるだろう。


項羽は王たちの反抗によって滅んだとも言えるわけだから、二の轍は踏まない、と考えるのは当然の事だ。