『史記』項羽本紀を読んでみよう:その23

その22(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180911/1536591891)の続き。




項王・范筯疑沛公之有天下、業已講解、又惡負約、恐諸侯叛之、乃陰謀曰「巴・蜀道險、秦之遷人皆居蜀。」乃曰「巴・蜀亦關中地也。」故立沛公為漢王、王巴・蜀・漢中、都南鄭。
而三分關中、王秦降將以距塞漢王。項王乃立章邯為雍王、王咸陽以西、都廢丘。長史欣者、故為櫟陽獄掾、嘗有徳於項梁。都尉董翳者、本勸章邯降楚。故立司馬欣為塞王、王咸陽以東至河、都櫟陽。立董翳為翟王、王上郡、都高奴。
徙魏王豹為西魏王、王河東、都平陽。瑕丘申陽者、張耳嬖臣也、先下河南郡、迎楚河上、故立申陽為河南王、都雒陽。
韓王成因故都、都陽翟。趙將司馬卬定河内、數有功、故立卬為殷王、王河内、都朝歌。
徙趙王歇為代王。趙相張耳素賢、又從入關、故立耳為常山王、王趙地、都襄國。
當陽君黥布為楚將、常冠軍、故立布為九江王、都六。鄱君呉芮率百越佐諸侯、又從入關、故立芮為衡山王、都邾。義帝柱國共敖將兵撃南郡、功多、因立敖為臨江王、都江陵。
徙燕王韓廣為遼東王。燕將臧荼從楚救趙、因從入關、故立荼為燕王、都薊。
徙齊王田市為膠東王。齊將田都從共救趙、因從入關、故立都為齊王、都臨菑。故秦所滅齊王建孫田安、項羽方渡河救趙、田安下濟北數城、引其兵降項羽、故立安為濟北王、都博陽。
田榮者、數負項梁、又不肯將兵從楚撃秦、以故不封。
成安君陳餘弃將印去、不從入關、然素聞其賢、有功於趙、聞其在南皮、故因環封三縣。
番君將梅豉功多、故封十萬戸侯。
項王自立為西楚霸王、王九郡、都彭城。
(『史記』巻七、項羽本紀)


項羽、全国各地を国割りし、王を決めていく。




劉邦は巴・蜀と漢中の王になった。「ここも関の内側には違いないだろ。いいんだよ細けぇこたぁ」っていう口実だそうだ。

漢元年正月、沛公為漢王、王巴・蜀。漢王賜良金百溢、珠二斗、良具以獻項伯。漢王亦因令良厚遺項伯、使請漢中地。項王乃許之、遂得漢中地。
(『史記』巻五十五、留侯世家)


最初は巴・蜀だけの王にされるところだったが、張良が項伯を通して漢中も付けてほしいと項羽に働きかけたお陰で漢中も領土にしてもらえたという事らしい。




そして章邯ら秦からの降将を関中の王にした。「三秦王」と呼ばれる。



なお司馬欣は秦人であるが項羽のお友達人事である。




他の土地においては、既に居た王を活かしつつも領土を減らし、項羽(楚)の側の人間か、項羽に好意的な人間をこれまでの王から取り上げた土地に置くような形を取っている。



旧来の王を掣肘しつつ、項羽に協力した者への論功行賞も行うという、これはこれで中々考えられた手、かもしれない。


ただ、領土を一方的に奪われた形になる元からいる王の方には当然不満が残っただろう。




更に、項梁の代から項羽と遺恨がある斉においては、事実上の最高実力者田栄には王を与えておらず、項羽との間の遺恨が更に深まった事は明らかだった。





既にいた王もある程度尊重しなければいけない。一方で項羽に協力し共に戦った者への論功行賞もちゃんとやらなければいけない。



何度も言っているように項羽は元はいわば反乱者であるから、なおの事シンパへは大盤振る舞いしないと支持が得られにくいだろう。



そうなると、王位は限られているわけで、結果として既にいた王から領土を強奪するような方法になってしまったのかもしれない。




例えば関中全体を項羽自身で支配して強い地盤を得ていたなら、このような国割りを力で認めさせる事も出来たのかもしれないが、残念ながら実際の項羽はそうではない。





嵐が起こりそうな予感でいっぱいである。