項羽の対趙戦略の影響

久之、項羽略地至河上、陳平往歸之、從入破秦、賜平爵卿。項羽之東王彭城也、漢王還定三秦而東、殷王反楚。
項羽乃以平為信武君、將魏王咎客在楚者以往、撃降殷王而還。項王使項悍拜平為都尉、賜金二十溢。
居無何、漢王攻下殷。項王怒、將誅定殷者將吏。
(『史記』巻五十六、陳丞相世家)

項羽の立てた殷王司馬卬は、劉邦の東征の際に楚に反抗したが、一度は陳平がそれを制圧して殷王を再度降伏させるのに成功したという(結局劉邦の軍門に降っているが)。




それだけ劉邦の東征の勢いがあったという事だろうが、他にも司馬卬が早々と楚に反抗する理由が思い当たる。



趙將司馬卬定河内數有功、故立卬為殷王、王河内、都朝歌。
(『史記』巻七、項羽本紀)


司馬卬は趙将であったというが、この時の趙は事実上は張耳と陳余によって牛耳られており、この司馬卬もこの二人の下にいたという事になるのではないだろうか。



そして、この劉邦が東征した頃、陳余は項羽と敵対し、張耳は劉邦の元へ逃げている。


つまり陳余も張耳も、「反項羽」的立場にあった事になる。



趙将だった司馬卬がどちらに近い側だったとしても、その主君筋に従って項羽に反抗する事になったのではなかろうか。




項羽の対趙戦略の失敗は、趙だけではなく、魏方面にまで波及していたとも言えるだろう。