『漢書』武帝紀を読んでみよう:その12

その11(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171209/1512745744)の続き。




四年冬、行幸甘泉。
夏、匈奴入代・定襄・上郡、殺略數千人。
五年春、大旱。
大將軍衛青將六將軍兵十餘萬人出朔方・高闕、獲首虜萬五千級。
夏六月、詔曰「蓋聞導民以禮、風之以樂、今禮壞樂崩、朕甚閔焉。故詳延天下方聞之士、咸薦諸朝。其令禮官勸學、講議洽聞、舉遺興禮、以為天下先。太常其議予博士弟子、崇郷黨之化、以窅賢材焉。」丞相弘請為博士置弟子員、學者益廣。
秋、匈奴入代、殺都尉。
六年春二月、大將軍衛青將六將軍兵十餘萬騎出定襄、斬首三千餘級。還、休士馬于定襄。雲中・鴈門。
赦天下。
夏四月、衛青復將六將軍絶幕、大克獲。前將軍趙信軍敗、降匈奴。右將軍蘇建亡軍、獨身脱還、贖為庶人。
六月、詔曰「朕聞五帝不相復禮、三代不同法、所繇殊路而建徳一也。蓋孔子對定公以徠遠、哀公以論臣、景公以節用、非期不同、所急異務也。今中國一統而北邊未安、朕甚悼之。日者大將軍巡朔方、征匈奴、斬首虜萬八千級、諸禁錮及有過者、咸蒙厚賞、得免減罪。今大將軍仍復克獲、斬首虜萬九千級、受爵賞而欲移賣者、無所流貤。其議為令。」有司奏請置武功賞官、以寵戰士。
(『漢書』巻六、武帝紀)

元朔4年から。




衛青は大将軍となってしばしば匈奴と戦い、功を立てる。




その一方で衛青以外の将軍たちはしばしば敗戦している。もしかしたら彼らの犠牲あってこそ衛青が勝っていたのかもしれない。

趙信、以匈奴相國降、為侯。武帝立十八年、為前將軍、與匈奴戰、敗、降匈奴
(『漢書』巻五十五、衛青霍去病伝、趙信)

今回匈奴に降伏した趙信というのは、実はもともと匈奴の貴人だった。漢に降伏して列侯になったのみならず、ここまで将軍として対匈奴戦線に投入されていたのである。



此後四年、衛青比歳十餘萬衆撃胡、斬捕首虜之士受賜黄金二十餘萬斤、而漢軍士馬死者十餘萬、兵甲轉漕之費不與焉。
於是大司農陳臧錢經用、賦税既竭、不足以奉戰士。有司請令民得買爵及贖禁錮免減罪、請置賞官、名曰武功爵 。級十七萬、凡直三十餘萬金。
諸買武功爵官首者試補吏、先除。千夫如五大夫。其有罪又減二等。爵得至樂卿、以顯軍功。軍功多用超等、大者封侯卿大夫、小者郎。吏道雜而多端、則官職秏廢。
(『漢書』巻二十四下、食貨志下)

「武功賞官」というのはいわゆる「武功爵」のことのようだ。



相次ぐ出征で軍費不足となり恩賞の捻出も苦労するようになった結果、任官や罪の軽減などに影響する爵位を恩賞として与えるようにしたのだ。いわゆる「二十等爵」とも違う爵位という事らしい。



しかも食貨志の説明からすると、どうやらその爵位は売買することもできたようなので、爵位より金が欲しいという者はその爵位を欲しがる者に売っていたのだろう。朝廷が直接金を作らずに恩賞を与えるということだ。