『漢書』宣帝紀を読んでみよう:その5

その4(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180206/1517842921)の続き。




秋七月、(霍)光奏議曰「禮、人道親親故尊祖、尊祖故敬宗。大宗毋嗣、擇支子孫賢者為嗣。孝武皇帝曾孫病已、有詔掖庭養視、至今年十八、師受詩・論語・孝經、操行節儉、慈仁愛人、可以嗣孝昭皇帝後、奉承祖宗、子萬姓。」奏可。
遣宗正徳至曾孫尚冠里舍、洗沐、賜御府衣。
太僕以軨獵車奉迎曾孫、就齊宗正府。
庚申、入未央宮、見皇太后、封為陽武侯。已而羣臣奉上璽綬、即皇帝位、謁高廟。
(『漢書』巻八、宣帝紀

霍光は劉病已を皇帝に立てるべきと発議し、それが裁可された。




(丙)吉奏記(霍)光曰「將軍事孝武皇帝、受襁褓之屬、任天下之寄、孝昭皇帝早崩亡嗣、海内憂懼、欲亟聞嗣主、發喪之日以大誼立後、所立非其人、復以大誼廢之、天下莫不服焉。方今社稷宗廟羣生之命在將軍之壹舉。竊伏聽於衆庶、察其所言、諸侯宗室在位列者、未有所聞於民間也。而遺詔所養武帝曾孫名病已在掖庭外家者、吉前使居郡邸時見其幼少、至今十八九矣、通經術、有美材、行安而節和。願將軍詳大議、參以蓍龜、豈宜襃顯、先使入侍、令天下昭然知之、然後決定大策、天下幸甚!」光覽其議、遂尊立皇曾孫、遣宗正劉徳與吉迎曾孫於掖庭。
(『漢書』巻七十四、丙吉伝)

なお、劉病已を立てるべきと霍光に進言したのはあの恩人丙吉だったという。丙吉はこの頃には霍光門下の重臣となっていたのである。



正直あまりに出来すぎた話に思えなくもないが、とにかくこれによって霍光は皇帝を誰にするか決めたという。




前回までで出てきたように、武帝の子孫で生き残っている者は霍光たちから見れば不適格者(燕王の子は謀反人の子、広陵王は先に不適格と断じられ、昌邑王は廃位された)ばかりであった。



劉病已は少なくとも大きな失点は無い若者であったし、儒学を仕込まれていたというのも事実である。また、昌邑王の時の失敗に懲りて、霍光らは群臣を200人も連れてくるような者を皇帝に立てたくない、という事情もあったのではなかろうか。




劉病已は皇太后(上官氏。劉病已よりも年下)に拝謁して一旦「陽武侯」という爵位を貰い*1、それから皇帝の位に就いた。




後の宣帝である。





*1:完全な庶民から皇帝に上がる事を避けたのだという。