『漢書』昭帝紀を読んでみよう:その8

その7(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180122/1516547197)の続き。




二年夏四月、上自建章宮徙未央宮、大置酒。賜郎從官帛、及宗室子錢、人二十萬。吏民獻牛酒者賜帛、人一匹。
六月、赦天下。
詔曰「朕閔百姓未贍、前年減漕三百萬石。頗省乘輿馬及苑馬、以補邊郡・三輔傳馬。其令郡國毋斂今年馬口錢、三輔・太常・郡得以叔粟當賦。」
三年春正月、泰山有大石自起立、上林有柳樹枯僵自起生。
罷中牟苑賦貧民。
詔曰「乃者民被水災、頗匱於食、朕虚倉廩、使使者振困乏。其止四年毋漕。三年以前所振貸、非丞相御史所請、邊郡受牛者勿收責。」
夏四月、少府徐仁・廷尉王平・左馮翊賈勝胡皆坐縱反者。仁自殺、平・勝胡皆要斬。
冬、遼東烏桓反、以中郎將范明友為度遼將軍、將北邊七郡郡二千騎撃之。
(『漢書』巻七、昭帝紀

元鳳2年、3年。




封禅を行う霊山である泰山で石がひとりでに立ち上がり、皇帝の巨大な私有地である上林苑では枯れた柳が復活した。

孝昭元鳳三年正月、泰山萊蕪山南匈匈有數千人聲。民視之、有大石自立、高丈五尺、大四十八圍、入地深八尺、三石為足。石立處、有白烏數千集其旁。
眭孟以為石陰類、下民象、泰山岱宗之嶽、王者易姓告代之處、當有庶人為天子者。孟坐伏誅。
(『漢書』巻二十七中之上、五行志中之上)

昭帝時、上林苑中大柳樹斷仆地、一朝起立、生枝葉、有蟲食其葉、成文字曰「公孫病已立」。
又昌邑王國社有枯樹復生枝葉。
眭孟以為木陰類、下民象、當有故廢之家公孫氏從民間受命為天子者。昭帝富於春秋、霍光秉政、以孟妖言、誅之。
(『漢書』巻二十七中之下、五行志中之下)

しかも、復活した枯れた柳の葉の虫食い穴が「公孫病已立」と読めるようになっていたり、昌邑王の国の方でも枯れた木が復活していたり、といったこともあったそうだ。



これについて眭孟(眭弘)という人物が「これらは王朝が交代する前兆である。皇帝は公孫氏に譲位すべきだ」と上奏し、彼は処刑された





少府や廷尉が獄に繋がれ死ぬという重大事件。これは燕王・桑弘羊・上官桀らの事件で逃亡者をかくまったという疑惑によるものである。


なお少府徐仁は当時の丞相田千秋(車千秋)の娘婿で、娘婿を助けるための行動で田千秋自身まで危なくなるほどの大事件に発展した。





范明友なる人物が度遼将軍となって烏丸を討伐。


ちなみにこの范明友は霍光の娘婿であるが、この時点から娘婿だったのかどうかはわからない。今回の功績が霍光の目に留まって娘婿になったのかもしれない。