三か百か

漢伐亡新、光武將五千人、王莽遣二公將三萬人、戰于昆陽、雷雨晦冥、前後不相見。漢兵出昆陽城、撃二公軍、一而當十、二公兵散。
(『論衡』恢国篇)

かの漢の世祖は王莽が派遣した王尋・王邑(二公)らの大軍を破った。



良く知られたこの話であるが、『論衡』では世祖が率いた兵は五千、二公は三万であったと伝えている部分がある。




ただし、『論衡』集解の編者劉盼遂は「當爲之壊字」と注しており、世祖のこの戦いについて一般に知られる兵数とのあまりの差に疑問を呈しているし、実際この現在伝わる『論衡』のごく一部*1だけを根拠に何か言うのは憚られるところだと思う*2




とはいえ、一種の異論、異説ではあると思うので一応記しておく。

*1:こういった書はしばしば衍字やら何やら伝写によって生じた誤りがあるものだが、『論衡』はそういうのが結構多いようである。

*2:筆者としても、「こう記されているところもあったんだね」と思っただけであり、「三が正しいに違いない」などと主張したいわけではない。