王翁須の出身地

初、上即位、數遣使者求外家、久遠、多似類而非是。既得王媼、令太中大夫任宣與丞相御史屬雜考問郷里識知者、皆曰王嫗。嫗言名妄人、家本涿郡蠡吾平郷。年十四嫁為同郷王更得妻。更得死、嫁為廣望王廼始婦、産子男無故・武、女翁須。
(『漢書』巻九十七上、外戚伝上、史皇孫王夫人)

王商字子威、涿郡蠡吾人也、徙杜陵。商父武、武兄無故、皆以宣帝舅封。無故為平昌侯、武為樂昌侯。語在外戚傳。
(『漢書』巻八十二、王商伝)


漢の宣帝の実母王氏(王翁須)の一族は「涿郡蠡吾人」とされている。



だがよく見ると「涿郡蠡吾人」なのは王翁須ではなく、その母の王嫗であり、王翁須の父は「広望王廼始」である。



この場合、当時の一般的な例では王翁須は「広望の人」にならないだろうか?



王長君、名無故。家在趙國、常山廣望邑人也。衛太子時、嫁太子家、為太子男史皇孫為配、生子男、絶不聞聲問、行且四十餘歳、至今元康元年中、詔徴、立以為侯、封五千戸。宣帝舅父也。
(『史記』巻二十、建元以来侯者年表、平昌)


なお『史記』建元以来侯者年表では王翁須の一族は「趙国に住む常山広望の人」とされている。




だが「広望」は『漢書』地理志上では涿郡に属する県(侯国)になっている。



王翁須らの「広望」は別の場所なのか、それとも当時この「広望」は涿郡ではなく常山郡に属していたのか?



よくよく見ると不可解な事が多い。