『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その37

その36の続き。


四月、隕霜、殺屮木、海瀕尤甚。
六月、黄霧四塞。
七月、大風拔樹、飛北闕・直城門屋瓦。雨雹、殺牛羊。
莽以周官・王制之文、置卒正・連率・大尹、職如太守。屬令・屬長、職如都尉。置州牧・部監二十五人。見禮如三公。監位上大夫、各主五郡。公氏作牧、侯氏卒正、伯氏連率、子氏屬令、男氏屬長、皆世其官、其無爵者為尹。分長安城旁六郷、置帥各一人。分三輔為六尉郡、河東・河内・弘農・河南・潁川・南陽為六隊郡、置大夫、職如太守。屬正、職如都尉。更名河南大尹曰保忠信卿。益河南屬縣満三十。置六郊州長各一人、人主五縣。及它官名悉改。大郡至分為五。郡縣以亭為名者三百六十、以應符命文也。縁邊又置竟尉。以男為之。諸侯國輭田、為黜陟筯減云。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

四月、霜が降りて草木が枯れた。水際の被害が特に酷かった。



六月、黄色い霧が四方を覆った。



七月、大風が樹木をなぎ倒し、宮殿の正門や直城門の瓦が吹き飛んだ。雹が降り、牛や羊が死んだ。



王莽は『周礼』や『礼記』王制の文章に基づいて卒正・連率・大尹の官を置いた。漢における太守と同様の職であった。
また属令・属長を置いた。漢における都尉と同様の職であった。
また州牧・部監二十五人を置いた。三公と同等の礼遇を受けた。監は上大夫の位であり、それぞれ五郡を司った。
公爵は牧となり、侯爵は卒正となり、伯爵は連率となり、子爵は属令となり、男爵は属長となり、みなその官を世襲することとした。爵位の無いものは尹となることとした。
長安城周辺を六郷に分け、郷ごとに帥を一人置いた。三輔分けて六尉郡とし、河東・河内・弘農・河南・潁川・南陽の六郡を六隊郡とし、太守に当たる大夫と都尉に当たる属正を置いた。
河南大尹を保忠信卿と改称した。河南郡の属県を三十に増加した。
六郊州長を一人ずつ置き、一人あたり五県を司った。
そのほかの官名も悉く改称した。大郡は五つにまで分割された。郡・県の名前を「亭」とするところを三百六十作り、天からの予言に合致させた。
辺境には竟尉を置き、男爵をその官に当てた。
諸侯の国の間にある農地は、諸侯の成績評価に応じて増減された。



4月というのは当時の季節的には夏なので、つまりは異常気象だ。
こういった異常気象は政治が上手くいっていないことによって生じるとされていたので、これは王莽の政治の妥当性に天が疑問を投げかけた、みたいな評価をされかねない事態ということになるのだろう。





王莽、漢の制度をいじくりまくるの巻。




洛陽がある河南郡が特別扱いされているのは、これから皇帝が移り住む首都になる予定だからなのだろう。



その河南郡洛陽を中心にすると、どうやら南陽や潁川というのは首都圏なのだなあ、というのもちょっと面白い。



地方の民政長官を世襲させようとしているのも、なかなか興味深い。