『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その38

その37の続き。


莽下書曰「常安西都曰六郷、衆縣曰六尉。義陽東都曰六州、衆縣曰六隊。粟米之内曰内郡、其外曰近郡。有鄣徼者曰邊郡。合百二十有五郡。九州之内、縣二千二百有三。公作甸服、是為惟城。諸在侯服、是為惟寧。在采・任諸侯、是為惟翰。在賓服、是為惟屏。在揆文教、奮武衛、是為惟垣。在九州之外、是為惟藩。各以其方為稱、總為萬國焉。」
其後、歳復變更、一郡至五易名、而還復其故。吏民不能紀、毎下詔書、輒繫其故名曰「制詔陳留大尹・太尉。其以益歳以南付新平。新平、故淮陽。以雍丘以東付陳定。陳定、故梁郡。以封丘以東付治亭。治亭、故東郡。以陳留以西付祈隧。祈隧、故滎陽。陳留已無復有郡矣。大尹・太尉、皆詣行在所。」其號令變易、皆此類也。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

王莽は命令を下した。「常安西都を六郷と言い、その周囲の県を六尉と言う。義陽東都を六州と言い、その周囲の県を六隊と言う。脱穀済みの穀物脱穀前の穀物を貢ぐことになっている範囲を内郡と言い、その外側を近郡と言い、砦や国境があるところを辺郡と言う。合わせて百二十五郡である。九州の内には県が二千二百三ある。
公は王都の千里四方から千五百里までの範囲であり、これを惟城と言う。王都の五百里四方から千里までの範囲は惟城と言う。王都から千五百里四方より遠くは惟翰と言う。その外側を惟屏と言う。文教を考え、武芸によって守る者を惟垣と言う。九州の外側を惟藩と言う。それぞれその方角を名称に付け、総合して万国とする」



その後、一年内にまた変更を加え、一郡が五回に渡って改称されてまた戻ることすらあった。
官吏や民も全て理解することができないため、詔書を発布するごとに旧名を付けた。「陳留大尹・太尉に命じる。益歳以南を新平に所属させよ。新平とは元の淮陽である。雍丘以東を陳定に所属させよ。陳定とは元の梁郡である。封丘以東を治亭に所属させよ。治亭とは元の東郡である。陳留以西を祈隧に所属させよ。祈隧とは元の滎陽である。陳留は今後は郡が無くなる。陳留大尹・太尉は皇帝の元へ戻るように」と、何度も変更が加えられるのはこのような有様であった。


王莽の名前に対する執着はこのような事態を生んだ。




とはいえ、官名にしても地名にしても、大幅に変更しようとか、悪い名前や不揃いな名前を修正しようとかいった動きはそれ以前にも以後にもしばしば現れるので、王莽だけが異常とは言えないだろう。


とはいえ、ここまで大規模で、かつはた迷惑な感じなのは類を見ないが*1

*1:この時に行われたと思われる地名変更の一例がhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20131024/1382541834