後漢献帝は長安を出て最終的に洛陽に戻ると、かつての中常侍趙忠の邸宅だったところで寝泊まりしたらしい。
つまり、本来寝泊まりすべき宮殿がどれも破壊されていたため、権勢を誇った宦官の邸宅ならば規模として宮殿の代わりになるということでそこにしたのだろう。
なお、趙忠の邸宅については皇甫嵩が黄巾討伐の際にその制限を超えた規模を弾劾したという話もあるが、もしかするとこれは鄴にも趙忠の邸宅があり(趙忠の地元である)、そこについて弾劾したということかもしれない。
先是、(韓)馥從事趙浮・程渙將強弩萬人屯孟津、聞之、率兵馳還、請以拒(袁)紹、馥又不聽。乃避位、出居中常侍趙忠故舍、遣子送印綬以讓紹。
(『後漢書』列伝第六十四上、袁紹伝上)