趙忠の屋敷

秋七月甲子、車駕至洛陽、幸故中常侍趙忠宅。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀、建安元年)


後漢献帝長安を出て最終的に洛陽に戻ると、かつての中常侍趙忠の邸宅だったところで寝泊まりしたらしい。




つまり、本来寝泊まりすべき宮殿がどれも破壊されていたため、権勢を誇った宦官の邸宅ならば規模として宮殿の代わりになるということでそこにしたのだろう。




初、(皇甫)嵩討張角、路由鄴、見中常侍趙忠舍宅踰制、乃奏沒入之。
(『後漢書』列伝第六十一、皇甫嵩伝)


なお、趙忠の邸宅については皇甫嵩が黄巾討伐の際にその制限を超えた規模を弾劾したという話もあるが、もしかするとこれは鄴にも趙忠の邸宅があり(趙忠の地元である)、そこについて弾劾したということかもしれない。


先是、(韓)馥從事趙浮・程渙將強弩萬人屯孟津、聞之、率兵馳還、請以拒(袁)紹、馥又不聽。乃避位、出居中常侍趙忠故舍、遣子送印綬以讓紹。
(『後漢書』列伝第六十四上、袁紹伝上)


だとすると、皇甫嵩が弾劾した大邸宅というのはその後あの韓馥が袁紹冀州牧を譲り渡した後の住まいのことなのだろう。