三国志はじめての官職:宦官

三国志の時代の導入部、「黄巾の乱」や霊帝死後の混乱といった局面において、一種のキーワードとなった一団があった。


「宦官」である。「宦官」とは、いったいどういった存在であっただろうか。



中常侍、千石。
本注曰、 宦者、無員。
後筯秩比二千石。掌侍左右、從入内宮、贊導内衆事、顧問應對給事。
(『続漢書』志第二十六、百官三)

いわゆる「宦官」は史書では「宦者」「閹人」などと呼ばれることが多い。




「去勢」つまり生殖能力を外科的手段で除去した男性のことである。


この時代においては通常自ら望んで去勢するのではなく、死刑になる代わりに去勢される「宮刑」を選んで宦官になるものであったようだ*1


宦官になると通常は皇帝の後宮や皇后・皇太后などの高貴な女性に仕えることとなる。


後宮の女性たちや皇后・皇太后たちに対しておっきしてしまっては困るので、宦官がその仕事をするのである。





その宦官の中でもトップと言える官職が「中常侍」であった。




これは「侍中」の宦官版と言える官職であり、侍中が要職であったように、いやそれ以上と言っていいくらい要職であった。




そもそも宦官というのは主に皇帝の後宮という基本的には男子禁制(というか立ち入ることを特に許されている者以外は入れない)の世界で皇帝の側仕えするための者たちである(女官もいるが、女官では逆に男の世界である官僚組織と行き来しにくい)。



つまり皇帝が侍中のような側近を含む官僚たちとの連絡をシャットダウンした公務外の時間にも皇帝の側にいるのが中常侍たちなのである。


つまり皇帝の信任を得れば相当に皇帝の判断さえ左右できたし、また皇帝の信任を得やすい立場だったということであり、そこから一部の官僚たちと結託して権力を持っていったとされている。




是時(張)讓・(趙)忠及夏綠・郭勝・孫璋畢嵐栗嵩段珪・高望・張恭・韓悝・宋典十二人、皆為中常侍、封侯貴寵、父兄子弟布列州郡、所在貪殘、為人蠹害。
(『後漢書』列伝第六十八、宦者列伝、張譲

後漢末においては上記の宦官たちが中常侍になって権勢をほしいままにしていたと言われ、「十常侍」などと呼ばれていた。


於是更召(徐)璜・(具)瑗等五人、遂定其議、帝齧(単)超臂出血為盟。於是詔收(梁)冀及宗親黨與悉誅之。(左)悺・(唐)衡遷中常侍、封超新豐侯、二萬戸、璜武原侯、瑗東武陽侯、各萬五千戸、賜錢各千五百萬。悺上蔡侯、衡汝陽侯、各萬三千戸、賜錢各千三百萬。五人同日封、故世謂之「五侯」。
(『後漢書』列伝第六十八、宦者列伝、単超)


この後漢末の宦官の権勢は、直接的には傀儡同然であった桓帝が当時の権力者梁冀を抹殺する際に宦官たちの力を使ったことに端を発していると考えられ(宦官自体はそれ以前から皇帝の即位を助ける等で勢力を拡大しつつあったが)、それ以来宦官は官僚たちと結びついて国政を左右し、地方の統治にも関与を強めていった。





だがそれに批判的な官僚や官僚予備軍も少なくなく、その不満の高まりと対立の激化の結果、霊帝死去の直後に宦官の大量誅殺という事件が起こることになった。

辛未、司隸校尉袁紹勒兵收偽司隸校尉樊陵・河南尹許相及諸閹人、無少長皆斬之。(張)讓・(段)珪等復劫少帝・陳留王走小平津。尚書盧植追讓・珪等、斬數人、其餘投河而死。帝與陳留王協夜歩逐熒光行數里、得民家露車、共乘之
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀)


事件の詳細は省くが、袁紹らによって「十常侍」らの宦官は殺されることとなり、宦官が権力を持つことはいったん途絶えることとなった。






そのため、三国志の時代においては導入部分以外ではあまり宦官という存在が出てこないが(黄皓という者もいたが)、皇帝のプライベートな空間において皇帝の側にいるということのメリットを最大限に活かしていたのが当時の宦官であった、と言えるだろう。




*1:光武帝が死刑ではなく宮刑を選ぶことができるという命令を出している。また、時代をさかのぼることになるが『史記』の司馬遷もそれによって宦官になっている。