趙忠のお墓

初平元年二月、葬弘農王於故中常侍趙忠成壙中、謚曰懐王。
(『後漢書』紀第十下、霊思何皇后紀)

後漢霊帝の子である少帝劉弁董卓らによって廃位され、弘農王に降格になった後に殺されたとされている。



そしてその墓としてはかつての中常侍趙忠の墓穴が使われたのだという。



中軍校尉袁紹説大將軍何進、令誅中官以悦天下。謀泄、(張)讓・(趙)忠等因進入省、遂共殺進。而紹勒兵斬忠、捕宦官無少長悉斬之。讓等數十人劫質天子走河上。追急、讓等悲哭辭曰「臣等殄滅、天下亂矣。惟陛下自愛!」皆投河而死。
(『後漢書』列伝第六十八、張譲伝)


趙忠はかの宦官誅殺の事件の際に袁紹らによって殺されており、つまりまともに埋葬されたとは思われないわけである。


つまり、弘農王が葬られた墓穴というのは、趙忠が生前に用意しておいた自分の墓穴であったが、実際に本人のためには使われることなく残り、その後弘農王薨去に際してちょうど残っていた趙忠の墓穴が再利用されたものなのだと思われる。



屋敷などについても制度を超えるものとの批判があった趙忠のことなので、おそらくは諸侯王を葬るのに使っても不思議ではないような規模の(人臣としての制度を超えた)墓穴だったのだろう。




本宅、別宅、そして死後に安置される場所、いずれも再利用されるというのはなかなか面白い。