以前、「州」の説明の中で、後漢ではいわゆる首都圏は「刺史」の管轄ではなかったということを述べたと思う。
では、首都圏を監察する官職は無かったのだろうか?もちろん、そうではない。
司隸校尉、周官、武帝征和四年初置。
持節、從中都官徒千二百人、捕巫蠱、督大姦猾。後罷其兵。
察三輔・三河・弘農。
元帝初元四年去節。成帝元延四年省。綏和二年、哀帝復置、但為司隸、冠進賢冠、屬大司空、比司直。
(『漢書』巻十九上、百官公卿表上)
司隸校尉一人、比二千石。
本注曰、孝武帝初置、持節、掌察舉百官以下、及京師近郡犯法者。元帝去節、成帝省、建武中復置、并領一州。
(『続漢書』志第二十七、百官志四)
「三輔」(前漢時代の首都「長安」とその近辺)、「三河」(後漢時代の首都「洛陽」とその近辺)、「弘農」(「三輔」と「三河」の間にある)を監察していたのは「司隷校尉」という官職であった。
しかも、この司隷校尉はそれらの郡の監察だけではなく、「百官以下」つまりあらゆる官職を監察対象にしていた、と記されている。
実際、丞相の罪を弾劾することなども起こっている。
おそらく、官僚組織全体に対する監察官として置かれたことで、「州」の「刺史」の管轄から外れていた首都圏の郡も監察対象になった、ということなのだろう。
というわけで、「司隷校尉」に関しては首都圏における刺史というだけではなく、「官僚組織全体、特に上層部に対しても権限が及ぶ監察官」という側面があったことが重要だと言えるだろう。
また、後漢末以降、「司隷校尉」の管轄だった首都圏は「司州」とされ、他の州と同様に刺史が任命されるようになった。
それ以降の「司隷校尉」は、首都圏の郡の監察という任を分離し、官僚組織全体に対する監察官という任務中心の官になったのだろう。
宦官皆殺し事件の際の袁紹、献帝を手中にしたばかりの頃の曹操、蜀漢の諸葛亮と、それぞれ時期も意味合いも違うが、それぞれ司隷校尉になっている。
それぞれ、どんな意図、どんな理由で司隷校尉になっているのかを考えてみるのも面白いかもしれない。