三国志はじめての官職:尹

以前の「」及び「司隷校尉」の説明の中で、実のところ少々説明を意図的に省いていた部分があった。




それは何かというと、首都を含む「郡」がどうであったか、という点である。



河南尹一人、主京都、特奉朝請。
其京兆尹・左馮翊・右扶風三人、漢初都長安、皆秩中二千石、謂之三輔。中興都雒陽、更以河南郡為尹、以三輔陵廟所在、不改其號、但減其秩。其餘弘農・河内・河東三郡。
(『続漢書』志第二十七、百官志四)

後漢の首都「洛陽」を含む郡の長官は「河南尹」と呼ばれる。



「太守」ではなく、「」という特別な呼称が用いられているのである。




また、前漢の首都「長安」を含む郡の長官は「京兆尹」といい、その近隣にある二郡は「左馮翊」「右扶風」といい、いずれも「郡」「太守」とは付けないのが通例であった*1



まさに、現代日本で「県」ではなく「都」を使っているようなものと思えばいいだろう。



「尹」とはこの時代の官制においては「首都」を表す語だと言っていい。





建安二年、因河内張炯符命、遂果僭號、自稱「仲家」。以九江太守為淮南尹、置公卿百官、郊祀天地。
(『後漢書』列伝第六十五、袁術伝)

後漢末、袁術は皇帝に即位したが、その時に九江郡を「淮南尹」に改称した、と記録されている。



これの意味するところは、袁術は自分の王朝においては洛陽ではなく淮南を新たな首都として認定した、ということなのである。




その一方、劉備蜀漢を立てて以来、蜀漢において蜀郡を尹としたとか、益州司隷校尉の管轄としたとかいったことは少なくとも記録にはないはずである。


これは、蜀漢ではあくまでも首都は洛陽・長安とみなしていたということであり、この二都を魏から奪い返すという意思表示にもなっていたと言えるだろう。




「尹」の使い方ひとつにもその王朝の政治思想が垣間見えるのである。

*1:魏の代になっていずれも「京兆郡」「馮翊郡」「扶風郡」と改められて通常の郡と同様の扱いになっている。