順帝欲立皇后、而貴人有寵者四人、莫知所建、議欲探籌、以神定選。
(胡)廣與尚書郭虔・史敞上疏諫曰「竊見詔書以立后事大、謙不自專、欲假之籌策、決疑靈神。篇籍所記、祖宗典故、未嘗有也。恃神任筮、既不必當賢。就値其人、猶非徳選。夫岐嶷形於自然、俔天必有異表。宜參良家、簡求有徳、徳同以年、年鈞以貌、稽之典經、斷之聖慮。政令猶汗、往而不反。詔文一下、形之四方。臣職在拾遺、憂深責重、是以焦心、冒昧陳聞。」帝從之、以梁貴人良家子、定立為皇后。
(『後漢書』列伝第三十四、胡広伝)
後漢の順帝は皇后を選ぶときに寵愛していた貴人4人から自分で選ぶことができず、くじ引きで選ぼうとしたという。
だが尚書僕射胡広らが反対したため取りやめることになった。
なおそれによればまず徳のある者を選び、徳の面で同等なら年齢で選び、年齢も同じなら容貌で選ぶ、という優先順位が示されている。
容貌を二の次にしているとも言えるが、容貌もまた選ぶ基準の一つとしてお堅い儒者や官僚サイドからも認識されていた、と言うこともできるかもしれない。