『後漢書』孝霊帝紀を読んでみよう:その2

その1(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/03/21/000100)の続き。





建寧元年春正月壬午、城門校尉竇武為大將軍。
己亥、帝到夏門亭、使竇武持節、以王青蓋車迎入殿中。
庚子、即皇帝位、年十二。改元建寧。以前太尉陳蕃為太傅、與竇武及司徒胡廣參錄尚書事。
使護羌校尉段熲討先零羌。
二月辛酉、葬孝桓皇帝于宣陵、廟曰威宗。
庚午、謁高廟。
辛未、謁世祖廟。大赦天下。賜民爵及帛各有差。
段熲大破先零羌於逢義山。
閏月甲午、追尊皇祖為孝元皇、夫人夏氏為孝元皇后、考為孝仁皇、夫人董氏為慎園貴人。
夏四月戊辰、太尉周景薨。司空宣酆免、長樂衛尉王暢為司空。
五月丁未朔、日有食之。詔公卿以下各上封事、及郡國守相舉有道之士各一人。又故刺史・二千石清高有遺惠、為衆所歸者、皆詣公車。
太中大夫劉矩為太尉。
六月、京師雨水。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀)

霊帝、即位。



太后は竇武と三公歴任者の胡広、そして陳蕃に政権を任せる。


初、桓帝欲立所幸田貴人為皇后。蕃以田氏卑微、竇族良家、爭之甚固。帝不得已、乃立竇后。及后臨朝、故委用於蕃。
蕃與后父大將軍竇武、同心盡力、徴用名賢、共參政事、天下之士、莫不延頸想望太平。
(『後漢書』列伝第五十六、陳蕃伝)

陳蕃は桓帝の時に一度罷免されていたが、桓帝の皇后として竇氏を推したという過去があったために復帰となったようだ。


そして彼は皇太后の父竇武と共に当時の人々からは歓迎される政治を行ったというが、その一方で桓帝の時から皇帝を強く諫言するタイプであり、上の者や周囲と摩擦を生みやすい要素はあったと言えるかもしれない。



「孝元皇」「孝仁皇」というのは亭侯に過ぎなかった霊帝の実の祖父・実の父を限りなく皇帝に近い扱いに追尊したものである。傍系から皇帝が立てられた際、前漢宣帝以来しばしば行われてきた措置である。



建寧元年春、(段)熲將兵萬餘人、齎十五日糧、從彭陽直指高平、與先零諸種戰於逢義山。虜兵盛、熲衆恐。
熲乃令軍中張鏃利刃、長矛三重、挾以強弩、列輕騎為左右翼。涙怒兵將曰「今去家數千里、進則事成、走必盡死、努力共功名!」因大呼、衆皆應騰赴、熲馳騎於傍、突而撃之、虜衆大潰、斬首八千餘級、獲牛馬羊二十八萬頭。
(『後漢書』列伝第五十五、段熲伝)


段熲はこの時は1万の兵で先零羌と呼ばれる羌の軍勢を討ち、8千の首級を挙げたのだそうだ。その功績で破羌将軍と昇進している。