『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その38

その37(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/06/13/000100)の続き。





二十年春正月甲子、立貴人曹氏為皇后。賜天下男子爵人一級、孝悌・力田二級。賜諸王侯公卿以下穀各有差。
秋七月、曹操破漢中、張魯降。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

建安20年。



曹操の娘、皇后になる。



獻穆曹皇后諱節、魏公曹操之中女也。
建安十八年、操進三女憲・節・華為夫人、聘以束帛玄纁五萬匹、小者待年於國。
十九年、並拝為貴人。及伏皇后被弒、明年、立節為皇后。
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下、献穆曹皇后)

伏皇后が死ぬ前年に後宮入りし、伏皇后が死ぬ年に貴人(側室の最高位)となり、翌年(というか伏皇后が死んで3カ月くらいか)には皇后になる。



凄いタイミングで伏皇后の事件が発覚したものだなあ(棒)。



ちなみに直接関係は無いが王莽も自分の娘が皇后になっている。




漢中の張魯曹操に降伏。

建安二十年、太祖乃自散關出武都征之、至陽平關。(張)魯欲舉漢中降、其弟衛不肯、率衆數萬人拒關堅守。太祖攻破之、遂入蜀。魯聞陽平已陷、將稽顙歸降、(閻)圃又曰「今以迫往、功必輕。不如依杜濩赴朴胡相拒、然後委質、功必多。」於是乃奔南山入巴中。
左右欲悉燒寶貨倉庫、魯曰「本欲歸命國家、而意未達。今之走、避鋭鋒、非有惡意。寶貨倉庫、國家之有。」遂封藏而去。太祖入南鄭、甚嘉之。又以魯本有善意、遣人慰喻。魯盡將家出、太祖逆拝魯鎮南將軍、待以客禮、封閬中侯、邑萬戸。封魯五子及閻圃等皆為列侯。為子彭祖取魯女。魯薨、諡之曰原侯。子富嗣。
(『三国志』巻八、張魯伝)

何でも、張魯は一旦は逃げ出したが、その際に物資などを焼かず、曹操に取られるに任せたのだという。これが特筆されるという事は、逃げる時に物資を焼いていくというのが常態化していたのだろう。こういった「敵に取られるくらいなら」の究極の形が強制移住かもしれない。



この時は物資などを全うし、おそらくは大きな被害などを出さずに済んだであろう漢中だが、またじきに争奪戦が始まるのだった。