消えた後継者

辛巳、立皇子冏為清河王。・・・(中略)・・・冬十月、清河王冏薨。
(『三国志』巻三、明帝紀、黄初七年)

乙酉、立皇子穆為繁陽王。
(『三国志』巻三、明帝紀、太和二年)

六月癸卯、繁陽王穆薨。
(『三国志』巻三、明帝紀、太和三年)

乙酉、皇子殷生、大赦
(『三国志』巻三、明帝紀、太和五年)

五月、皇子殷薨、追封諡安平哀王。
(『三国志』巻三、明帝紀、太和六年)

齊王諱芳、字蘭卿。明帝無子、養王及秦王詢、宮省事祕、莫有知其所由來者。
(『三国志』巻四、斉王芳紀)



魏の明帝こと曹叡様。



彼の息子について、少々不思議な点がある。






上記の記事を見ると、曹叡様には即位前後に「曹冏」「曹穆」という実子がいたらしいことがわかる。



その子たちはどちらも諸侯王に立てられ、すぐに死んでしまった。




だが、そうなると曹叡様の後継者はどうなっていたのだろうか?





一般に、後継者すなわち皇太子候補は、諸侯王には立てないのが普通のようである。



むしろ、諸侯王に立てるということは「本家は継がない」という意志表示のようなところがある。


諸侯王に立ててから太子にするのは、色々と面倒なことになりがち(諸侯王の従臣や外戚と朝廷の旧臣の対立関係が生まれやすい)であるからだ。





そうなると、曹叡様は「曹冏」「曹穆」どちらも後継者としては考えていなかったのだろうか?



斉王芳紀の記事からすると、曹叡には最終的に生き残った実子はいなかった。




そして、諸侯王に立てられた実子の記録はこの「曹冏」「曹穆」の二人しか見当たらない*1




そうなると、「曹冏」「曹穆」は当時の曹叡にとって数少ない貴重な後継者候補だったのではないかと思うのだが、次々と諸侯王にして分家してしまっているわけだ。






当時の曹叡は後継者を必要としていなかったのだろうか?



個人的にはどうも腑に落ちないことである。




*1:曹殷は生きているうちには立てられていない。