甄夫人

今回は私のモットーの通りこの記事(http://d.hatena.ne.jp/AkaNisin/20120102/1325433405)のふんどしで相撲を取らせてもらうことにする。


帝祖母號太皇太后、母號皇太后、妃號皇后、漢舊制也。
武帝採漢・魏之制、置貴嬪・夫人・貴人、是為三夫人、位視三公。淑妃・淑媛・淑儀・修華・修容・修儀・婕簱・容華・充華、是為九嬪、位視九卿。其餘有美人・才人・中才人、爵視千石以下。
高祖受命、省二才人、其餘仍用晉制。貴嬪、魏文帝所制。夫人、魏武帝初建魏國所制。貴人、漢光武所制。淑妃、魏明帝所制。淑媛、魏文帝所制。淑儀・修華、晉武帝所制。修容、魏文帝所制。修儀、魏明帝所制。婕簱・容華、前漢舊號。充華、晉武帝所制。美人、漢光武所制。
(『宋書』巻四十一、后妃伝)

上記は南朝宋の後宮の称号についてである。

その中に見えるように、皇后に続くものとして貴嬪・夫人・貴人が置かれていた。
おそらく、先に書かれる方がより上位なのだろう。つまりこの時点では貴嬪は後宮において皇后に次ぐ地位ということになる。



また、「夫人」というのが曹操が魏公になって魏国において定めた号だということも注意すべきだろう。
三国志』后妃伝にも同様の事が記されている。っていうか『三国志』の方が元ネタだが。




ここまでは前置き。

そこで本題。
我らがアイドルと言っても過言ではない魏の明帝曹叡さまの母、甄氏。


彼女が曹丕の即位前後にどんな立場、どんな地位だったのかを考えてみよう。


癸未、追諡母甄夫人曰文昭皇后。
(『三国志』巻三、明帝紀

明帝曹叡さまは即位直後に実母である甄氏を「文昭皇后」と諡した。


ここで、「甄夫人」と言っていることに注意してみよう。

ここの「夫人」は称号ではなく一般的な「奥さん(○号)」の意味でしかない可能性もあるかもしれないが、そう考えてしまうと「甄氏は正式な称号ろくに貰ってませんでした」って結論になってしまうので、これは上記の魏における後宮の称号としての「夫人」だと考えておこう。



つまり、魏の文帝の黄初二年(即位二年目)に死去した甄氏の最終的な(あるいは、最高位の)称号は「夫人」だったということだ。



その甄氏のライバル、と思われている郭氏(文帝の郭皇后)は、曹丕が魏王になると夫人、皇帝に即位すると貴嬪になった、と『三国志』后妃伝に記されている。つまり昇格しているのである。



郭氏は甄氏と最低でも同格だったが、曹丕が皇帝になってからは一段も二段も上の地位に上がっていることが確認できる。




とはいえ、「うーん、でも曹叡って子供産んでるんだから実際には甄氏の方が上だったんじゃない?」みたいに考える人もいるだろう。


だが、そもそも曹叡は嫡子でも長子でもない庶子の一人でしかないことは、既にid:AkaNisin氏によって解明されている

曹丕が即位した頃で考えれば、後継者候補一番手の曹協がいた上に曹叡庶子として封建され外に出されている。
曹叡は後継者争いから事実上脱落しているのである。


これでは子供を産んでいるというアドバンテージは無いに等しい。
仮に皇后になったとしたら、結局後継者として血の繋がらない曹協を受け入れなければいけないのだから、郭氏も甄氏も同じスタートラインに立っているのである。



となれば、曹丕が魏王になった時は「夫人」という王后に次ぐ地位に居たとはいえ、曹丕が続いて皇帝になった時に昇格せずに「夫人」に留められ、一方で郭氏がより上の「貴嬪」に昇格しているというのは、やはり甄氏が既に寵愛を失っていたのを示しているのだと考えざるを得ないところだ。

延康元年正月、文帝即王位、六月、南征、后留鄴。黄初元年十月、帝踐阼。踐阼之後、山陽公奉二女以嬪于魏、郭后・李・陰貴人並愛幸、后愈失意、有怨言。帝大怒、二年六月、遣使賜死、葬于鄴。
(『三国志』巻五、后妃伝)

つまり、上記の記事の通りであるということだ。



注で引用される『魏書』では曹丕が甄氏を皇后に立てようとしたという記事があったようだが、残念ながらかなり怪しいものと考えざるを得ない。

称号の上でも失寵が明らかなのに、また特別それまでと変わったこともないのに突如甄氏が皇后になるだなんて突飛な話だからだ。