甄氏は皇后を辞退したのか

黄初元年十月、帝踐阼。踐阼之後、山陽公奉二女以嬪于魏、郭后・李・陰貴人並愛幸、(甄)后愈失意、有怨言。帝大怒、二年六月、遣使賜死、葬于鄴。
(『三国志』巻五、文昭甄皇后伝)

魏の明帝曹叡様の母である甄氏。




彼女は曹丕の寵を失い、曹丕と寵姫が都洛陽へ移り住む中ひとり鄴に留め置かれ、恨み事を言ったとされて死を賜った。




魏書曰、有司奏建長秋宮、帝璽書迎(甄)后、詣行在所、后上表曰「妾聞先代之興、所以饗國久長、垂祚後嗣、無不由后妃焉。故必審選其人、以興内教。令踐阼之初、誠宜登進賢淑、統理六宮。妾自省愚陋、不任粢盛之事、加以寢疾、敢守微志。」璽書三至而后三讓、言甚懇切。時盛暑、帝欲須秋涼乃更迎后。會后疾遂篤、夏六月丁卯、崩于鄴。帝哀痛咨嗟、策贈皇后璽綬。
(『三国志』巻五、文昭甄皇后伝注引『魏書』)

その一方で、王沈『魏書』では甄氏を皇后に立てようという皇帝の意思が伝えられたが甄氏が重ねて辞退した、という話も伝えている。





この二つの件は矛盾しているようにしか思えないし、裴松之も割と厳しい調子で『魏書』の偽りを非難している。



だが、これは本当に単なる虚飾なのだろうか?






昨日の記事などで述べたように、曹操の時代、曹丕の正妻(=皇后)に最も近かったのは、曹操直々に曹丕の次の後継者として指名された曹叡様の母である甄氏であった。





つまり、曹叡様と甄氏に相当な落ち度でもない限り、曹丕としては父の遺志に従って曹叡様を太子、甄氏を正妻として扱うしかないのだ。



皇后を立てるべしという建言に対しても、もう寵愛していないから、というだけでは甄氏を立てない理由にはならない。


少なくとも、曹丕は一度は皇后に立てようとしてみなければ曹操の遺志を知る者たちに対して顔向けできなかったのである。





しかし、これはおそらく茶番だったのだろう。



曹丕が甄氏を皇后にする気など皆無だということは、彼女だけ連れて行かないことや、後継者のはずの曹叡を列侯にしていわば宮殿から追い出したことから察せられる。



曹丕は(聞こえますか…甄氏よ…今…貴方の…心に…直接…語りかけています…皇后に…なっている場合では…ありません…あなたは…これから…私を誹謗した罪で…告発されます…辞退です…辞退するのです…それだけが息子を守る方法なのです…)と甄氏の心に語りかけていたのだろう。




曹丕としては甄氏を皇后、曹叡様を皇太子にはしたくない。


でも父の遺命に逆らうわけにもいかない。



となると、消えてもらうしかないということになってしまう。




もし甄氏が皇后の地位を辞退しなければ、皇后になってから「事件」が起こって甄氏と曹叡様は罪人扱いされることになったのだろう。




事前に辞退し、息子の事は他の寵姫に託して自らは薬を飲む。



それだけが甄氏にとって息子を助ける道、曹丕にとってのこの件の落としどころであったのではなかろうか。






つまり、『魏書』の立皇后の件も、『三国志』が載せるような経緯も、どちらもでっち上げなどではなく、ある事実の一面を記したものであったのではないか、と考えられるのである。



陳寿が立皇后のくだりをカットしたのは、むしろそういった二面性を十分に理解できずに裴松之のように虚偽と断じてしまったためだろうか。