雍州刺史殺害事件

典略曰、張猛字叔威、本燉煌人也。猛父奐、桓帝時仕歴郡守・中郎將・太常、遂居華陰、終因葬焉。
建安初、猛仕郡為功曹、是時河西四郡以去涼州治遠、隔以河寇、上書求別置州。詔以陳留人邯鄲商為雍州刺史、別典四郡。時武威太守缺、詔又以猛父昔在河西有威名、乃以猛補之。商・猛俱西。
初、猛與商同歳、每相戲侮、及共之官、行道更相責望。暨到、商欲誅猛。猛覺之、遂勒兵攻商。商治舍與猛側近、商聞兵至、恐怖登屋、呼猛字曰「叔威、汝欲殺我耶?然我死者有知、汝亦族矣。請和解、尚可乎?」猛因呼曰「來。」商踰屋就猛、猛因責數之、語畢、以商屬督郵。督郵録商、閉置傳舍。後商欲逃、事覺、遂殺之。是歳建安十四年也。
(『三国志』龐淯伝注引『典略』)

秋七月、武威太守張猛殺雍州刺史邯鄲商。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀、建安十一年)


後漢末、涼州の内河西回廊方面の四郡を他の郡と分けて雍州が置かれた。



それを上奏したという張猛は武威太守となり、彼と同年齢の邯鄲商という人物が雍州刺史となって一緒に任地へと出発した。



同年齢ということで仲の良かった二人は道中どんどん険悪な関係となっていき、着任したころには邯鄲商は張猛誅殺を考えるほどであったという。

なんか微妙にリアルでいやな人間関係である。




張猛も黙っていたわけではなく、兵を率いて邯鄲商を攻め、彼を捕えてしまった。純然たる反乱である。





張猛は捕えた刺史邯鄲商を幽閉したが、後に脱走を図ったことから殺してしまうのだった。



この時は建安十四年であったという。






一方、『後漢書』によればこの事件は建安十一年の出来事とされている。


いったいどちらが正しいのだろうか。



もしかしたら刺史襲撃が十一年で数年幽閉の後十四年になって殺害とかいったタイムラグでもあったのだろうか。