酒泉太守の失敗

楊阿若後名豐、字伯陽、酒泉人。少遊俠、常以報讐解怨為事、故時人為之號曰「東市相斫楊阿若、西市相斫楊阿若。」
至建安年中、太守徐揖誅郡中彊族黄氏。時黄昂得脱在外、乃以其家粟金數斛、募衆得千餘人以攻揖。 揖城守。豐時在外、以昂為不義、乃告揖、捐妻子走詣張掖求救。會張掖又反、殺太守、而昂亦陷城殺揖、二郡合勢。昂恚豐不與己同、乃重募取豐、欲令張掖以麻繫其頭生致之。豐遂逃走。武威太守張猛假豐為都尉、使齎檄告酒泉、聽豐為揖報讐。豐遂單騎入南羌中、合衆得千餘騎、從樂涫南山中出、指趨郡城。未到三十里、皆令騎下馬、曳柴揚塵。酒泉郡人望見塵起、以為東大兵到、遂破散。昂獨走出、羌捕得昂、豐謂昂曰「卿前欲生繫我頸、今反為我所繫、云何?」昂慚謝、豐遂殺之。時黄華在東、又還領郡。豐畏華、復走依燉煌。至黄初中、河西興復、黄華降、豐乃還郡。郡舉孝廉、州表其義勇、詔即拜駙馬都尉。後二十餘年、病亡。
(『三国志』巻十八、閻温伝注引『魏略』勇俠伝)

後漢末建安年間、酒泉郡の太守は徐揖という人物であった。



彼はどうやら酒泉郡の豪族であった黄氏の排除を目論んで実行に移したが、おそらくその中でも大物であったと思われる黄昂を取り逃がしており、黄昂の逆襲を受けて殺されている。




黄昂は楊豊(楊阿若)なる人物に殺されるが、酒泉郡は黄華という人物によって掌握されたという。



まず間違いなく黄昂と同族、つまり酒泉郡の豪族黄氏であろう。






この時の楊豊の行動は武威太守張猛のバックアップを受けていたとされている。



張猛は雍州刺史を監禁・殺害した人物で建安十五年に韓遂に負けて死んでいる(『三国志』龐淯伝注引『典略』)ので、この件はそれ以前のことであろう。




後(麴)演復結旁郡為亂、張掖張進執太守杜通、酒泉黄華不受太守辛機、進・華皆自稱太守以應之。
(『三国志』巻十六、蘇則伝)

それから十年以上のち、延康元年頃に黄華は曹丕に反旗を翻し、酒泉太守辛機を受け入れず自ら太守を名乗った、という。




十年は開いているのでその間は中央派遣の太守を受け入れていた可能性もあるが、隣の敦煌郡が太守派遣されないままだった例があるので、もしかすると太守がやってこず、延康元年前後になって初めて敦煌に尹奉、酒泉に辛機と同時に太守が送り込まれたのかもしれない。


そうだとしたら、その間は黄華が太守の職務を執っていたのだろう。