今年前半、自分の中では涼州がトレンドワードであった。
後漢一代を通じて戦乱の被害者であり続け、加害者ともなった州。
魏の版図でありながら諸葛亮や姜維に狙われると割とあっさり離反したり、なんだか協力的だったりしている州。
そんな辺境の後漢末から三国時代における実態を知りたかったのである。
そして個人的には色々と収穫があった。
ひとことで言うと「そりゃ魏に背くわ」。
涼州刺史のたったひとつの冴えたやり方
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140227/1393429864
蓋勲が「政治腐らせてる汚物は消毒しろ」(意訳)って言い出すのもしゃーない。
後漢の涼州刺史はこれでもかと言わんばかりに無能か厄介なヤツばかりであるという印象。
一部で有名な張奐の孫はなかなかハイレベルな謀反人だった。
籠城してる側からしたら、もっと兵を残すよう引き止めたのに、割と近くまで味方がいるのに、という状況での孤立はやりきれないことだろう。
その理由に繋がる。
涼州人にしてみれば、涼州を事実上見捨てた曹操は桀・紂に匹敵する存在なのかもしれない。
宋建についての疑問。
涼州と雍州の不思議な関係。
「敦煌は太守が20年間いなかった」ことは、無政府状態を意味しているわけではない。
どちらかというと漢王朝が太守を送らなかった(送れなかった)だけで、敦煌の行政の枠組みは曲がりなりにも維持されていた、という話。
後漢末の涼州出身者の中には、この悲惨な強制移住を経験した人間もいたかもしれない。
経験者の心にはきっと陰を残していたことだろう。
辺境や苦しい立場に置かれた者たちの間の中での上下で争いあい、食い合う。
これはきっと涼州に限らないのだろうが、より悲劇性を高めている。
『潜夫論』を読んでみよう−救辺篇その1
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140831/1409412781