(竇)武孫輔、時年二歳、逃竄得全。事覺、(曹)節等捕之急。胡騰及令史南陽張敞共逃輔於零陵界、詐云已死、騰以為己子而使聘娶焉。後舉桂陽孝廉。至建安中、荊州牧劉表聞而辟焉、以為從事、使還竇姓、以事列上。會表卒、曹操定荊州、輔與宗人徙居於鄴、辟丞相府。從征馬超、為流矢所中死。
(『後漢書』列伝第五十九、竇武伝)
後漢の竇武は宦官を排除しようとして失敗し一族もろとも誅殺の憂き目に遭った。
その孫の竇輔はこのとき2歳であったが、竇武の故吏であった桂陽の人胡騰らに匿われた。
胡騰の故郷荊州に身を隠した彼は胡騰の息子として育てられ(胡氏に改姓し「胡輔」を名乗ったということである)、孝廉に推挙されるまでとなり、荊州牧劉表の従事として招かれた。
そこで姓を戻してこれまでのいきさつを公表し皇帝にも上奏したのだった。
曹操が荊州を落とすと彼は鄴に移住することとなり、曹操の丞相府の属官となったが馬超との戦いで命を落としたということである。
曹操も危なかった局面があったので、その際に曹操の近くにいて戦死したのかもしれない。
なかなかドラマチックな人生。
宦官に父祖を殺され逃げることとなった彼が「宦官の孫」に仕えたというのも面白い。