丞相設置の請願

(建安)十三年春正月癸未、司徒趙温請置丞相。
秋七月、曹操劉表
八月丁未、光祿大夫郗慮為御史大夫
(『後漢紀』孝献帝紀第三十)

後漢紀』では、後漢末に丞相を置くよう請願したのは当時の司徒趙温という事になっている。



(建安)十三年春正月、公還鄴、作玄武池以肄舟師。漢罷三公官、置丞相・御史大夫
夏六月、以公為丞相。
(『三国志』巻一、武帝紀)

(建安)十三年春正月、司徒趙温免。
夏六月、罷三公官、置丞相・御史大夫。癸巳、曹操自為丞相。
秋七月、曹操南征劉表
八月丁未、光祿勳郗慮為御史大夫
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)


だが、『後漢書』では司徒趙温はその月に罷免され、その後に丞相が置かれた、という順番になっている。



更に、『後漢紀』では肝心な「6月に曹操が丞相になった」という『三国志』『後漢書』に記されている部分が抜け落ちている。



思うに、『後漢紀』のこの部分には文の乱れがあるのではないか。


「司徒趙温請置丞相」とその前後について、字の誤りか文の抜け落ち(またはその両方)が起こっていて、元々は何か違う事が書かれていた部分であったという可能性もありそうだ。