『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その41

その40(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/06/17/000100)の続き。





二十三年春正月甲子、少府耿紀・丞相司直韋晃起兵誅曹操、不克、夷三族。
三月、有星孛于東方。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

建安23年。



献帝のいる許県で反乱が起こった。

獻帝春秋曰、收紀・晃等、將斬之、紀呼魏王名曰「恨吾不自生意、竟為羣兒所誤耳!」晃頓首搏頰、以至於死。
山陽公載記曰、王聞王必死、盛怒、召漢百官詣鄴、令救火者左、不救火者右。衆人以為救火者必無罪、皆附左。王以為「不救火者非助亂、救火乃實賊也」。皆殺之。
(『三国志』巻一、武帝紀注)


この反乱を起こした者のひとり韋晃は丞相司直。つまり丞相の下にいた人物であり、丞相曹操は飼い犬に手を噛まれた、という感じなのである。



また、この反乱を鎮圧して戦死した王必は上司曹操からかなり気に入られていたらしく、曹操は怒って漢の百官を自分のいる鄴にまで来させて事情聴取をしたという。

本当かどうかちょっと怪しく感じるが、事実であれば、漢王朝の大臣たちをこぞって藩国に出頭させたという事になる。多くを殺したという結果ともども、中々に凄い話である。漢王朝の面子は潰れたどころではない。



二十三年春正月、漢太醫令吉本與少府耿紀・司直韋晃等反、攻許、燒丞相長史王必營、必與潁川典農中郎將嚴匡討斬之。
曹洪呉蘭、斬其將任夔等。
三月、張飛馬超走漢中、陰平氐強端斬呉蘭、傳其首。
夏四月、代郡・上谷烏丸無臣氐等叛、遣鄢陵侯彰討破之。
六月、令曰「古之葬者、必居瘠薄之地。其規西門豹祠西原上為壽陵、因高為基、不封不樹。周禮冢人掌公墓之地、凡諸侯居左右以前、卿大夫居後、漢制亦謂之陪陵。其公卿大臣列將有功者、宜陪壽陵、其廣為兆域、使足相容。」
秋七月、治兵、遂西征劉備。九月、至長安
冬十月、宛守將侯音等反、執南陽太守、劫略吏民、保宛。
初、曹仁討關羽、屯樊城、是月使仁圍宛。
(『三国志』巻一、武帝紀)


なお、この年は劉備が漢中方面へ進出し、南陽では侯音の反乱が起こった年でもあった。



先の吉本・耿紀・韋晃らの反乱は成功したら劉備を頼ろうとしたとされており(『三国志武帝紀注引『三輔決録注』)、一歩間違えれば許から南陽南陽から江陵とひとつなぎになっていたかもしれなかったのかもしれない。



そして劉備は漢中でも荊州でも動き始めていた。これまでは曹操のいない方で動いていた感があったが、いよいよ戦闘態勢が整った、という事か。