その31(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/06/05/000100)の続き。
十三年春正月、司徒趙温免。
夏六月、罷三公官、置丞相・御史大夫。癸巳、曹操自為丞相。
秋七月、曹操南征劉表。
八月丁未、光祿勳郗慮為御史大夫。
壬子、曹操殺太中大夫孔融、夷其族。
是月、劉表卒、少子琮立、琮以荊州降操。
冬十月癸未朔、日有食之。
曹操以舟師伐孫權、權將周瑜敗之於烏林・赤壁。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)
建安13年。
この年は色々起こっている。
まず、長安時代から付き従っていた司徒趙温が罷免。
獻帝起居注曰、建安十三年、為司徒趙温所辟。太祖表「温辟臣子弟、選舉故不以實」。使侍中守光祿勳郗慮持節奉策免温官。
(『三国志』巻二、文帝紀注引『献帝起居注』)
趙温は曹丕を自分の門下に招いた事を「選挙不実」とされた。曹操に陥れられたのか、曹操が本気で自分の直下以外から招かれたくなかったのか、どちらにしてもこれで三公は曹操だけになった。
そして、曹操は丞相に。丞相は前漢ではあったが、前漢末に無くなって三公に代わっている。三公よりも権力が集中していたと考えられるので、曹操はこれでいよいよ朝廷を制圧にかかったと言う事が出来そうである。
やはり袁氏とその関係者が消えた事で誰にも気にする必要が無くなったのだろう。
続いて曹操は荊州へ侵攻。ちょっと前まで幽州にいた曹操は休みなしという感じだが、こういう時期の総大将は他の時代でも割とそういう感じの仕事ぶりである。
だが劉備が残っており、曹操はそれを追う。で、孫権の将周瑜がレッドクリフする。
この辺の事は今更だろうから省略。
このあたり『三国志』武帝紀が急激に言葉少なになる気がするが、気のせいだろう。何にしても曹操が多くの被害を出して戻ってきた事に変わりはない。荊州の江北はなんとかしたのだから無駄な戦ではなかった。