曹丕は曹操死去の一報が届いた翌日に皇帝の勅命も無く、丞相の印綬も魏王の璽も手元に無い状態で、卞王后の令だけを根拠に魏王・丞相になっている(陳矯伝)。陳矯曰わく先王が愛子を連れたまま国外で死ぬという緊急事態ゆえだそうな。
— 徳操さん (@daradara3594) 8月 7, 2012
例によってこんなツイートを見かけたので確認してみる。
行前未到鄴、太祖崩洛陽、群臣拘常、以為太子即位、當須詔命。(陳)矯曰「王薨于外、天下惶懼。太子宜割哀即位、以繋遠近之望。且又愛子在側、彼此生變、則社稷危矣。」即具官備禮、一日皆辦。明旦、以王后令、策太子即位、大赦蕩然。
(『三国志』巻二十二、陳矯伝)
群臣は「皇帝の詔を受けてから即位するべきだ」と言う。
しかし陳矯はそれに「王が外征中に薨去して天下の人々は不安になっている。太子はすぐに即位して動揺を抑えて人々の気持ちを繋ぎ留めましょう。それに、王のそばには寵愛する子がおります。もし何か異変があれは魏は危うくなりますぞ」と言って反対し、即座に即位の準備を始めさせて翌日には太后の命令ということで*1即位を宣言したのであった。
最高権力者の出先での死、そこに居合わせた子、というと始皇帝が死んだ時の事が有名である。
陳矯は同じようなことが起こるぞ、と言いたいのだ*2。
その頃、洛陽の方では曹操の遺体と魏王・丞相の印綬を前にしてこんなことが起こっていたわけであり、結果おおごとにならずに済んではいるものの、この時の陳矯の心配は杞憂ではなかったと言えるだろう。