曹操の出自に関する妄想

【1】

養子(曹)嵩嗣、官至太尉、莫能審其生出本末。
(『三国志』巻一、武帝紀)


【2】

評曰、夏侯・曹氏、世為婚姻、故惇・淵・仁・洪・休・尚・真等並以親舊肺腑、貴重于時、左右勳業、咸有效勞。
(『三国志』巻九、諸夏侯曹伝)


【3】

呉人作曹瞞傳及郭頒世語並云、(曹)嵩、夏侯氏之子、夏侯惇之叔父。太祖於惇為從父兄弟。
(『三国志』巻一、武帝紀注)


【4】

魏氏春秋載紹檄州郡文曰・・・(中略)・・・父嵩、乞匄攜養、因贓假位、輿金輦璧、輸貨權門、竊盜鼎司、傾覆重器。・・・(中略)・・・此陳琳之辭。
(『三国志』巻六、袁紹伝注引『魏氏春秋』)


曹操(曹嵩)の出自に関しては、『三国志』と注において上記のような証言がある。



【1】によれば曹嵩の出自は審らかにできないという。
これが陳寿の調査能力の限界なのか、とんでもないタブーに触れてしまうために「言いたくても言えないんだよね」っていうことなのか、ここだけではよくわからない。


【2】によれば曹氏と夏侯氏は代々婚姻関係を結んでおり、そのために両氏は曹操の近臣として大事な働きをしたのだ、と述べている。


【3】によれば曹嵩は元は夏侯氏だという。つまり夏侯氏に生まれたが曹騰の養子になったということだ。
ただし文中にあるように呉人の書に出ていることであり、信憑性という点には疑問符を付けざるをえないだろう。



ここまで読めば、「なんだ、やはり曹嵩ってのは曹氏と代々婚姻関係のあった夏侯氏から養子に取っただけじゃないか」と思える。




だが、【4】はその推論に真っ向から立ちはだかる。

「曹嵩は乞食のガキだったのが養われただけなのに金で官位を買って贅沢して権門に賄賂して三公にまでなった」と陳琳が作ったことで有名な袁紹の檄文で言っているのだ。

まあ、普通の反応は「敵陣営のただのでっちあげじゃないか。ハハッワロス」だろう。
正直、自分も最初はそう思っていた。

だが、先日の記事の五胡十六国時代の話を見ると、当時は曹嵩の出自は不明であると考えられているようだった。

夏侯氏から養子に入っただけだったら、なんでそんな話が伝わらずに不明のままになっているのだろう?



可能性は2つ。
本当にもう誰にもわからなかったのか、それとも後世わからなくなってしまうくらい秘密にされ続けたのか、だ。

そしてそれは、どちらにしても曹嵩の出自が相当怪しいものであることを意味する。
実家がそれなりの家であるなら、わからなくなってしまうというのも、隠し続けるというのも考えにくいからだ。


そう、【4】の陳琳檄文の内容は意外と真実に近いかもしれないのだ。
実際、敵対勢力の檄文とはいえ、色々なところに曹操の顔見知りがいて不思議ではないのだから、あまりに現実にかけはなれたことを書いたらすぐにバレて逆効果になってしまう。



こう書いたら、【2】と【3】があるじゃないか、曹嵩は夏侯氏だし夏侯氏は代々曹氏と婚姻関係結んでいるじゃないか、という反論があるだろう。

まあ【3】の『曹瞞伝』などの信憑性には目を瞑るとして、確かに【2】のように書いてある。
だが「世為婚姻」とは書いているが、いつから婚姻しているかについては言及されていないではないか。
もしかしたら、夏侯氏が世に出て以降、言い換えれば曹操の覇業が始まり夏侯惇・淵らが活躍し出してから曹氏と婚姻関係を結ぶようになったのかもしれないではないか。
曹操の世代以前から曹氏と夏侯氏が代々婚姻関係だとは限らない。そんな関係ではなかった可能性もある。

むしろ、前の世代の豪華絢爛な官位や財産が記載される曹氏と、一族間でも飢え死にと隣り合わせだったり、曹操の身代わりにされるという鉄砲玉扱いの夏侯氏は、曹操以前は段違いに格差があったのではないか。





【1】【2】【3】【4】を全て矛盾なく、それでいてそれぞれを尊重して解釈すると、こうなるのである。


曹操の父、曹嵩の実家は夏侯氏である。

そして、夏侯氏はその頃は乞食と貶されても仕方ないくらいの小身の一族であったのだろう。

同郷の誼と、おそらくは何らかの才能を見込まれて養子を探していた曹騰が、夏侯氏の子であった嵩を養子にした。

その近親の夏侯惇が学問できるだけの財力を手に入れたのは叔父曹嵩のお蔭なのだろう。


だがこのことは、曹嵩・曹操にとっては秘中の秘であった。
何故なら、かつては乞食同然であったということは知られたくないことだから。
夏侯氏曹操に付き添いながらも同格ではなく格下の家来のような存在であったのだろう。


それに転機が訪れるのは戦乱の世となり曹操が自分の手足となる武将を欲した時。
夏侯氏はそこにちょうどハマる存在だったのだ。
こうして曹操と共に出世していく夏侯氏
やがて、夏侯氏曹操にとって曹氏と肩を並べる近親となり、曹氏と同格の家ということで婚姻関係を結んでいく(曹操夏侯惇の子同士も婚姻関係がある)。

だがここで、更に曹嵩の出自を隠す理由が出来てしまう。
曹嵩は元は夏侯氏なので、曹操の血族との結婚は「同姓不婚」に抵触するのだ。
陳矯は実際にそれを指弾されている。


ということで、曹操は自分の父の生家については永遠に口を閉ざすしか面目を保つ方法が無くなってしまったのである。



こうして、公式には曹嵩の生家については一切沈黙したため、陳寿は「わかりません」と言うしかなくなった。
もしかしたら真実を知っていたかもしれないが、陳寿が生きた西晋王朝の王侯大臣には夏侯一族もいたし、夏侯氏と婚姻関係を結んでいた者だって少なくないのだ(景帝司馬師など)。
「曹嵩は乞食同然の夏侯氏から養子になりました」などと素直に書いたら首が(比喩ではなく)すっとんでしまいかねない。

呉人の記録の方で素直に書いてあるのは、その事情を考慮すれば不思議ではないのである。
曹氏や夏侯氏に憚る必要がないのだから。

曹操の同時代人陳琳はおそらくある程度の噂などを知っていたからこそ「乞食の子」と言えたのだろう。